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35. 受賞コンサート

ホールの照明が一段と明るくなり、二時間前の結果発表の時には空席が目立っていた客席も、今ではすべてが埋め尽くされていた。


深紅のシートに腰を下ろした観客たちは、手元のプログラムをめくりながら、隣人と小声で言葉を交わしている。


時折、その視線は舞台中央に置かれたグランドピアノへと注がれた。 場内の空気は次第に緊張を帯び、ざわめきの奥には高揚した呼吸が混じっている。


取材用のカメラが時折フラッシュを放ち、観客の中にはスマートフォンを掲げて光景を収める姿も見られた。 まもなく始まる演奏への期待と興奮が、ホール全体を包み込んでいた。


拍手が起こり、最初に登場したのは金色のドレスをまとったマギーだった。七分丈のドレスに黒い平底の靴、髪には赤いリボンが結ばれている。


彼女が選んだのは、モーツァルトのピアノ・ソナタ ヘ長調 K.332。


第一楽章は軽快に始まり、素早く音が連なる難所も、十三歳のマギーは難なく乗り越えていく。

急激な音量の変化も、彼女の指先では自然に移り変わり、聴く者に違和感を与えない。


第二楽章「アダージョ」では、まるでオペラのアリアを歌うかのように、ゆったりとした旋律を情感豊かに奏で、彼女の成熟した一面が垣間見えた。


第三楽章では、軽快な主題が繰り返される中、「フォルテ」と「ピアノ」の対比が鮮やかに描かれる。強い音から急に弱く、あるいはその逆へと移る場面では、観客が思わず「おっ」と声を漏らすほどのダイナミズムがあった。


二十分ほどの演奏が終わり、マギーが立ち上がって一礼すると、まるで優勝者をたたえるかのような盛大な拍手が巻き起こった。


「やっぱり、この少女は天才ね」

ベルダが興奮気味に立ち上がる。「すごい演奏だった」


コンサート経験の少ないエドガーでさえ、彼女の演奏の素晴らしさを理解できた。これ以上の演奏があるのだろうかとさえ思う。


次に登場したのは、長身のロシア人、ミハイル・ペトロワ。


彼が演奏するのは、ラフマニノフの「音の絵」Op.39より第三曲、第五曲、そして第九曲。


十八歳の若さで、晩年のラフマニノフが描いた「暗く重厚な世界」に挑む。

彼はロシア的な情熱を存分に発揮し、荒々しくも幻想的な音楽を見事に表現した。


「彼はただの十八歳のピアニストではない。こんなに深く哲学的な音を出せるのか」

と 聴衆は息を呑み、彼の演奏に圧倒された。


休憩を挟み、チェコの期待の星、十六歳のイジー・プロハースカが登場した。


彼が選んだのは、スメタナの「連作ピアノ小品」。


観客の熱気が渦巻く中、イジーは舞台中央へと進み出る。

十六歳とは思えないほどがっしりとした体格で、その態度には緊張の色はなく、むしろやる気がみなぎっている。


ピアノの前に腰を下ろすと、しばらく鍵盤を見つめた。

そのまなざしは、まるでこれから対話する相手と心を通わせているようだった。 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出し、彼の指が鍵盤に触れる。


その音は、祖国の緑豊かな森を吹き抜ける風のざわめき。ボヘミアの村々に広がる陽光に煌めく麦畑の風景。


「連作ピアノ小品」が持つ郷愁と喜びに満ちた世界が、鮮やかに立ち上がる。 イジーの演奏は、ただ正確なだけではない。


彼の内からほとばしる情熱、音楽への深い愛情、そしてこの瞬間にすべてをかける覚悟が、ピアノの弦を震わせていた。 その力強い響きは、特にチェコ人の聴衆の魂を揺さぶった。


彼が鍵盤から手を離した瞬間、ホールには奇妙な沈黙が訪れた。

それは、感動のあまり人々が言葉を失ってしまったからだ。


数秒後、堰を切ったように万雷の拍手が彼を包み込んだ。


「イジーが優勝でも、よかったのではないか」

そんな思いが、観客の心に沸き上がった。


エドガーは頭を下げ、両手で顔を覆っていた。

三人の演奏があまりにも完璧すぎて、流音がそれを超えられるのかと不安が募る。


流音が選んだのは、日本の作曲家・芥川也寸志の「即興曲集」から第二、第三、第四曲。そして、ショパンの「幻想即興曲」が続くという。


「アクタガワって、知ってるか」

エドガーがベルダに小声で尋ねた。


「いいえ、初めて聞いたわ」

「どうして『即興曲』を選んだのだろう。わかるかい」

「わからない」


流音が選曲を誤ったのではないかという不安がエドガーを襲った。

だが、彼女が深く考えて決めたことだから、信じてみようと気持ちを切り替え、姿勢を正した。


拍手が起こり、シンプルな黒いロングドレスをまとった流音が登場した。髪もブロンドではなく、黒で後ろで束ねているが、星型の髪飾りはつけている。


「衣装、地味すぎないか」

とエドガーが小声で聞いた。


「驚かさないでよ。エドガーったら、女みたいなこと言うのね。あなたって、そんなことを気にする人だった?」

とベルダが眉間に皺を寄せた。


芥川の第二曲は静かで抒情的。幻想的な世界に聴衆を引き込んだ。 第三曲では現代的なテクニックを披露し、動くたびに髪の星型のサイドクリップがきらきらと光った。


第四曲は夜想曲風で、再び静かな夜の世界へと誘った。


それに続くショパンの幻想即興曲では、圧倒的な技巧とドラマが展開され、華やかに大団円を迎えた。


観客が総立ちになった。


間違いなく、優勝者の演奏だった。

流音は、その経験と知性で選曲し、感情と技巧で演奏しきった。


「ああ、こういうことだったのか」

エドガーは舞台上の流音を見つめた。


ファイナルに選ばれた知らせを受けた時、悲鳴を上げて丘を駆け下りたあの少女と、今の彼女が同じ人間だとは思えなかった。


「やったわね。ルネさんにしかできない演奏だった」

「ぼくは、もっと音楽がわかっていたらと思ったよ。みんな素晴らしかったけど、ルネも負けてはいなかった」


「負けていなかったなんていう話じゃないわよ。明日の新聞が楽しみだわ」

ふたりは席を立って、出口へと向かった。


「ところで、さっきのあれは何?あなたがドレスのことを心配するなんて、呆れたわ」

「いや。ルネが、ファイナルの前には、自分には華がないから赤いドレスを着るって言ったから。黒でいいのかなと」

「大丈夫だって。あの子の華は、もう満開だから。あなたには、まいったわね」


彼のことは子供の時から知っているけど、こんな風ではなかった。いつもどこか冷めていて、自信家、わが道を行くタイプだったのに、若いピアニストに出会ってから、まるで人間のようだ。


恋は流行病のようなもので、その病にかかると人は変わるとは聞いてはいたけれど、まさかエドガーがそうなるとは。


こういう態度を一度でも私に向けてくれたら、人生は楽しいはず、とベルダは少々苦々しく思わずにはいられない。


「まいったって、なんだよ」

「あなたの馬鹿さ加減によ」

ベルダは無駄口をたたいてみる。


「まったくな」

エドガー自身も、自分の感情を持て余しているようだ。


「会いには、いかないの?」

「これからパーティがあるんだ。その後で、連絡が来ることになっている」

「そう」

ベルダは小さく頷いたが、どこか落ち着かない様子である。


「また言うようだけど、こんなに心配してるエドガーなんて、見たことないわよ。あなた方の結婚は、無理なんじゃない?こんなふうに、毎日、心配していたら、どうなるのよ」


「うん。そうなんだよな」


「否定しないの?冗談なのに、そんな顔して。驚いちゃう」

「昨日、一晩考えていた。ぼくは、ルネを幸せにはできないだろうって」


「あのね」

ベルダが立ち止まり、エドガーの顔を覗き込んだ。


「馬鹿ねぇ。幸せって、なに? 幸せは自分自身でつかむものだし。それに、まず、世の中に幸せな人なんていると思ってるの?」

「それは、いるだろう」


「そんなの、幻。人生は即興幻想曲みたいなものよ。一度、弾くと決めたら、間違えても、曲を忘れても、最後まで弾くしかないんじゃない?」


エドガーはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

「ベルダは、なんだか、いつも正しいことを言っているように聞こえる」


「そうでしょ。でもね、正しいことが、いつも正しいとは限らないのよ」

ベルダは肩をすくめて、出口の扉を押し開けた。

「それ、どういう意味だよ?」


ホールの外には、夜の冷たい空気が広がり、星がいくつか瞬いていた。

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