33. ファイナルの演奏
エドガーが席につくと、前の三人の審査員の後ろ姿が目に入った。この三人が採点をするのだと思うと、祈る気持ちになった。
彼はこれまで音楽に関心を払わなかったことを、心から悔やんだ。
これまで流音が弾いたピアノは、彼の耳にはどれもすばらしく聴こえたのだが、他の人の演奏と比べると、どの程度なのか、正直わからない。それを聴き分けられる耳がほしい。
こんなに素晴らしい世界があったというのに、これまではレクイエムだけしか聴かないで、残念なことをした。今からでも、間に合うだろうか。
流音がそばにいるから、学べる。大丈夫だ。
壇上にはオーケストラが座り、ピアニストの到来を待っている。
会場が静まり、いくつかの咳の後、拍手が鳴ると、赤いドレスを着た流音が入ってきた。
ブロンドのウィッグをかぶっているが、ドレスに合っていて違和感がないから、嘲笑などはない。
エドガーはほっとしたが、ベルダだけが驚いて、クジャクみたいな首をしてエドガーを見たから、彼が「そうなんだよ」と頷いた。
エドガーには、流音がずいぶん落ち着いているように見えたのだが、それは自分が緊張しているからかもしれない。
彼女にライトがあたり、その中で礼をして、頭を上げた時、彼はおやっと思った。その姿をどこかで、見たことがある。
とにかく、今は分からないなりに、自分の耳でしっかり聴こうと彼は頭を下げ、神経を集中させた。
ついに、演奏が始まった。
オーケストラの音はドラマチックで、何かが起こりそうな予感を感じさせる。ピアノがオーケストラに「こんにちは」とあいさつする。
エドガーは、うまく対話できるようにと祈るが、すぐにオーケストラとの議論のような感覚に襲われた。大丈夫だろうか、と頭を上げると、流音の髪飾りが光った。
波の高さが変わる海のように、ピアノの音が波間の光のように輝く、そんな感じがした。
二楽章では、流音が以前に弾いてくれた曲だと気づき、親しみが湧いた。
あの時はソロだったが、今回はオーケストラの柔らかい伴奏に乗って語りかける。静かな夕暮れ、森の中で鳥のさえずりを聞くような感覚。村を訪れたあのときの風景を思い出した。
三楽章は、民族舞曲のような明るく快活なリズムで、あのレストランのおばさんを思い起こさせた。
ピアノが軽やかに舞い、みんなで笑いながら踊っているように終わった。
観客が立ち上がるのを見て、エドガーも立ち上がり、拍手をした。
ベルダがエドガーのほうを向いた。
「どうだった?」
「よかったと思う。でも……」
彼自身は良かったと感じていたが、もし流音がミスをしたとしても気づくこともないだろうし、他の審査員がどのように評価するのかも分からない。ものを知らなくて自信がないということは、こういうことなのだ。
「ベルダはどう思った?」
「すごくよかったわ。この間のルネさんとはまるで別人みたい。星のように輝いていて、劇場のプリマドンナという感じだった。ウィッグやドレスとは関係なくね」
「そうか。彼女、自分には華がないって心配していたんだ」
「ルネさんは、きっと星だったのよ。夜になるのを待っていた星。ついに夜がやってきて、輝きだしたの」
「それなら、よかった」
「どうしたの?疲れた顔をしてるけど」
ベルダが顔を覗き込んだ。
「疲れた。こんなに一生懸命に音楽を聴いたのは初めてだから」
「まぁ、なんて野蛮な人なの」
「本当だな」
「彼女は明日の練習があるから、会えないでしょ。家に帰る?」
「いや、今夜は帰らない」
「わかるわ、気持ち。じゃ、飲みに行く?それとも私のホテルに来る?ダブルベッドだけど、襲わないから心配しないで」
「そんなこと心配するか。でも今夜はひとりで考えたいことがある」
「うん、了解」
その晩、エドガーは旧市街橋塔の上へ飛び、マントを敷いて寝たのだが、なかなか眠れなかった。




