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32. エドガーのDNA

この数日間、エドガーは救急患者の対応に追われながら、デリオンを迎える準備もしなければならなかった。


しかし時間は異様に遅く、まるで砂時計の砂が一粒ずつ落ちるのを凝視しているようだった。


エドガーがプラハのルドルフィヌムに現れたのは、ファイナル二日目の午後だった。


コンクールのファイナルは二日にわたり、初日の午後はマギー・カガとロシアのミハイル・ペトロワ。二日目の午後はチェコのイジー・プロハースカ、そして流音が舞台に立つ。


エドガーは流音の演奏に間に合うよう飛んできたのだが、ホールの前には無情にも「完売」の札が下がっていた。


「まいったな」


発表会や入賞者ガラならともかく、ファイナルが満席とは予想外だった。やれやれ、また忍び込むしかないか。


そう思って頭をかいたその時、


「なに、ぼんやり立ち尽くしてるの?」


声の主はベルダだった。

手に二枚のチケットを持って、ひらひらさせている。


「まだここにいたのか。研究所の建築を仕切ってるくせに、ずいぶん暇そうじゃないか」

「何を言ってるの。超多忙なのに、あなたのお母さんにあることを頼まれて、わざわざ戻ってきたんじゃないの」


「母が? デリオンのこと?」

「違うわよ。まあ、それは後で。ねえ、このコンクール、今やSNSで世界的に話題になってるって知ってた?」


「いいや。十三歳の天才ピアニストのことかい?」


「違うわよ。もともとはルネさん」


「ルネがどうかしたのか?」


「そんな心配顔しないの。惚れてるのが顔に出すぎよ」


ベルダはエドガーの腕をつかみ、人通りの少ない場所へと引っぱった。


「フランス人審査員のクレール・デュポンがね、『ルネを落とすなら審査員を辞める』って言い放って書類を投げ捨て、姿を消したのは知っているわね。それが騒ぎの発端。その後ルネさんが選ばれて、ファイナル四人の一人に残った。ゼロ点からの合格。だから今、世界中の人が、ルネってどんな人なのか注目しているのよ」


「そうなのか。ルネがプレッシャーに押し潰されなければいいけど」


「他人の心配してる場合、って言いたいわ」

「どういう意味だい」

「チケットを取ってあげたんだから、特別に高いコーヒーをおごりなさいよ」


ふたりは近くのスタンドでコーヒーを買い、紙コップを手にヴルタヴァ川のほとりへ歩いていった。


「私たち、学者同士だし、もういい年で隠し事は嫌だから、はっきり言うわね」

「何を?」


「あなたのこと。お母さんから、あなたとお父さんの髪の毛を預かって、親子関係を調べてほしいと頼まれたの。髪の毛を抜かれたこと、知ってた?」

「どういうこと?」


そう言えば、母にハグされた時、髪の毛を強く引っ張られた記憶が蘇った。


「詳しいことは知らないけれど、お母さん、急に思い立ったみたい」

「母は時々、突拍子もないことを思いつく人だからな」


「でも、今回は違ったわ。私は手が回らなかったから、DNAの専門家の友人に解析を頼んだの。その結果を率直に言うとね」

ベルダは少しためらった。


「早く言えよ」

「……エドガー、あなたと、あなたの『父親』のレタナトス氏は、DNA上はまったくの赤の他人よ」


「父が、ぼくの父親じゃない? そんなはずはないだろ」

「そんなことが現実にはあるのよ。だからと言って、あなたはもうねる年齢じゃないわよね」


「拗ねたりなんかするはずがない。……じゃあ、ぼくの本当の父親は誰なんだ」

「それを突き止めるのが、遺伝子系譜学者の仕事。リュシフルはマインツでそちらの研究をしているから、頼んだら探してもらえるけど。知りたい?」


「いや。ぼくの父は、あの人だ。血のつながりなんてどうでもいい」


「じゃあ、もう一つ驚くことを教えるわ。あなたの実父は『人間』らしいの」

「人間……? それは驚きだ。じゃあ、ぼくの吸血鬼の血は半分だけなのか」


「あなたの場合はお母さんの血が強いから、吸血鬼としての資質は七十五パーセントほど」

「つまり、ぼくの二十五パーセントは人間……」

「そういうこと」


エドガーは顔を上げたり伏せたりしながら考え込んだ。


「あまり驚いてはいないようね。心当たりでもあるの?」

「いや、まったく考えたことはなかった。でも、言われてみれば納得できる。子どもの頃から、なぜか人間になりたかったから」


「そう、ずっと人間になりたがっていたわね。でも、このことはお母さんには言わないで。『エドガーには伝えるな』って念押しされたのに、私は言ってしまったから」


「ベルダ、ありがとう。言うの、簡単じゃなかっただろう」

「そう。でも、あなたは幼なじみだし、親友だから、秘密は持ちたくなかった」

「感謝するよ」


ヴルタヴァ川が黙々と流れていた。

ふたりは紙コップを手にしながら、黙って、その流れを眺めていた。


「そろそろ時間。ルネさんの演奏が始まるわ。行きましょう」

「うん、行こう」


もし流音にこの話をすれば、どんな顔をするだろうとエドガーは思った。

でも、それは、すべてが終わってから。

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