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31. デリオンの夢

「デリオン、どうしたんだ。どうして、こんなところにいるんだ」


エドガーがコートの裾を翻し、夜風を切って駆け寄った。彼の吐く白い息が、冷たい空気の中で霧のようにゆらめいている。


「飛び出してきちゃったんだよ……」

デリオンの声は、冬に母親からはぐれた小鳥のように震えていた。


「お兄さん、もうロンドンに帰っちゃうんでしょ。ぼくを町に連れていってくれるって言ったのに」


その青い瞳は、星を閉じ込めたように光りながら、涙で滲んでいた。


「ごめん。いろいろと忙しくて、忘れてしまっていた」


「ルネさんのことでしょ。ぼくなんか、どうでもいいのかい?」


その一言に、エドガーの胸が締め付けられた。

「そんなことはない。デリオンは、ぼくの誰よりも大切な弟だ」


「ぼくだって。お兄さんが、世界で一番好きなんだよ。知ってた?」

「知ってるさ」


エドガーはデリオンを抱きしめた。

か細い肩の震えが、彼の掌を通して伝わってくる。その体は軽すぎて、まるで抱きしめた瞬間に風にさらわれてしまいそうだった。


「ぼく、お兄さんみたいに学校に通いたいんだ。友達だってほしい。ひとりも、いないんだよ。それから、ガールフレンドだって作りたい」


「兄さんだって、ガールフレンドは初めてだよ。デリオンはまだ十二歳だろ。兄さんはもう二十八だよ」


デリオンの長い銀色の髪が、風に踊っていた。


「お父さんやお母さんは、ぼくが暴れるんじゃないかって心配して、すぐに寝かせようとする。でも、ぼくはもう、寝てばかりの毎日なんていやなんだよ」


「そうだな。わかっているよ。でも、みんな、きみを健康にしようと懸命に手がかりを探しているんだから、もう少しだけ、頑張ろう」


「でも、もう飽き飽きなんだよ」

「そうだな。飽き飽きだよな。じゃあ今夜は、兄さんと町を飛び回ろうか」


「えっ、本当に? いいの?」

デリオンの瞳が大きくなった。


「いいよ。どこに行きたい」

「ぼく、行きたい場所があるんだ」



プラハの街並みを遠くに望む丘の上に、216メートルのテレビ塔がそびえ立っていた。


三本の白い柱は夜空に突き刺さるようにまっすぐ伸び、チェコのアーティストが作った巨大な赤ん坊たちが、その柱をよじ登っている。月明かりがその奇妙なシルエットを淡く照らし出していた。


その最上部に、エドガーとデリオンは並んで座っていた。


足元には、百塔の町の光が広がっている。


「デリオンは、ここに来たかったのか」

「うん」


「高いところが好きなんだな」

「うん。地下はもういやだ」


デリオンの青い瞳が、遠くに瞬く街灯りを映し、氷の結晶のようにきらめいていた。


「お兄さん、どうしてぼくは、こんなふうに生まれてきたんだろう。ぼく、普通になりたいよ」


「わかるよ、デリオン。でも、もう少しだ。財団が支援して、ベルダがミュンヘンに大きな研究所を建てている。あれは特別なことだよ。そんなふうに尽くしてもらえる子どもなんて、ほかにいないだろ」

「……そうだね」


「デリオンは健康になったら、何になりたい?」

「ぼく、ロンドンに行って、救急病院の外科医になるんだ。そして、怪我をしたピアニストを救うんだよ」


「それ、兄さんのパクリじゃないか」

「そうかも」


デリオンがふふっと笑った。夜風がその頬を撫で、笑みの奥にある儚さをいっそう浮かび上がらせた。


「お兄さん、恋をするって、どんな気持ち?」

「ぼくもよくはわからない。でも、生きてきてよかったって思える瞬間がある」


「ぼくの相手は、どんな子かな」

「デリオンの相手の子は、きっと世界で一番美しい子だよ」


「好きになってくれるかな」

「デリオンを見て、好きにならない子はいないよ」


何人なにじんかな」

「そうだな……チェコ人か、フランス人か、日本人かもしれないな」


「お兄さん、ぼくがもし何かあっても、わざと悪いことをしているわけじゃないって、わかってほしいんだ」

「そんなこと、もうわかっているさ」


エドガーはデリオンを強く抱きしめた。その小さな胸に耳を当てると、震えるような鼓動が聞こえた。


「ぼくが自分をコントロールできなくなったら、お兄さん、助けてくれる?」

「もちろんだ。いつだって助ける」

「絶対に、すぐに来てね。ぼくをひとりにしないでね」


「約束するよ。ぼくはロンドンに帰っても、三日後には戻ってくる」

「絶対に、帰ってきてね」


「そうだ、デリオン。ロンドンに来て、治るまで一緒に暮らさないか」

「えっ、いいの?」


「いいさ。そしたら、いつもそばにいられる。いつでも、助けられる」


「夢みたいだな。ぼく、お兄さんと暮らせるなら、どんなことだってする。ぼくが暴れたら檻に入れてもいいよ。縛ってもいいよ。本当に、行ってもいいの?」


「いいよ。一緒に暮らそう」


デリオンの澄んだ青い目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

その涙は、月の光を吸い込み、宝石のようにきらめきながら宙に散った。


この子はこれまで、どれほど孤独で、どれほどの痛みを抱えて毎日を生きてきたのだろう。


エドガーの胸に切なさが込み上げ、喉の奥が熱くなった。

夜の風が二人を包み込み、遠くで鐘の音が鳴った。


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