30. 赤いボヘミアングラス
車での移動中、流音は窓の外に流れるボヘミアの丘や、赤やオレンジに輝く屋根の色をじっと見つめていた。
まるで、その風景を心の奥に深く焼きつけようとしているかのようだった。
エドガーは彼女の集中を邪魔しないよう、静かにハンドルを握っていた。
しばらくして、流音がふいに顔を上げ、エドガーの方を向いた。
「私、今回のコンクールが人生で最後のチャンスだと思うのです。だから、やれることは全部やってみるつもり」
「それはそうだよ」
「そうじゃなくて、『やれることは何でもやってみる』って意味よ」
流音は目を輝かせ、少し照れたように微笑んだ。
「何か考えがあるのかい?」
「ええ。でも、笑わないでね」
「約束するよ。絶対に笑わない」
「私、真っ赤なドレスを着てステージに上がろうと思うの。これまでコンサートでは黒とか灰色、淡い色しか着たことがなかったけれど、今回は真っ赤なドレスにしたいの」
「どうして急にそう思ったんだい?」
「ネラホゼヴェス村の『ウ・マミンキ』で食事をした時、水が入っていたグラスが真っ赤なボヘミアングラスだったでしょう? 窓から差し込む光を受けて、ルビーみたいに透き通って見えたの。水が揺れるたびに、テーブルや壁に赤い宝石のような影が揺れて、とても華やかだったわ。もしあれが透明なグラスだったら、あんなに感動はしなかったと思うの」
エドガーは、テーブルに置かれた赤いグラスのざらりとした手触りを思い出した。掌に伝わった、あの冷たさまで蘇るようだった。
「いや、ぼくは食事に夢中で覚えてないけど」
「私はこれまで『華がない』って言われてきたし、自分でもそう思っていました。でも、生まれつきだと諦めていたけれど、もしかしたら華やかさって『演出』できるんじゃないかって思うの。だから、あの赤いグラスみたいなドレスを着てステージに立ちたったら、どうかしら?」
「うん、すばらしい考えだと思う」
「それじゃあ、プラハのブティックへ連れて行ってくれますか」
「いいけど、もっといい考えがあるよ」
「もっといい考えって?」
「母のクローゼットにたくさんドレスがあるんだ。母はほとんど黒しか着ないのに、なぜか色とりどりのパーティードレスが入っていてね。その中に、ルネが気に入るものがあるかもしれない」
「ぜひお願いします」
流音が期待に満ちた目で頷いた。
*
「ルネさん、エドガーから聞いたわ。お好きなドレスが見つかったら、どれでも差し上げますよ。古いものもありますが、お気に入りが見つかるとよいのだけれど」
セラフィナがクローゼットの重たい扉を開けると、予想以上の数の衣装が並んでいた。
流音は迷うことなく、ルビー色のドレスを選び取った。
「これです。私の理想どおり」
「じゃあ、さっそく着てみてごらんなさい。エドガー、下に行ってマルヴェナを呼んできてちょうだい。サイズを直してもらいましょう」
「そうだわ、こういうのもあるのよ」
セラフィナは奥から金色の毛皮のようなものを抱えてきた。
「お母さん、それは何ですか?」
エドガーが触ってみた。
「ウィッグよ。古いけれど、まだ使えるはず」
「こんなブロンドのウィッグ、どうしたんですか?」
「私が若い頃に使っていたの」
「何のためにですか?」
「ルネさん、かぶってみたら? もっと華やかになるわ」
「はい。でも、こういうのは、ちょっと」
流音が首を傾げると、エドガーが慌てて言った。
「お母さん、だめですよ。そんなの、ルネのイメージじゃないです」
「でも、ルネさんは『イメージを破りたい』のですよね?」
「そうですけど……」
そこへ女中のマルヴェナが現れ、流音に赤いドレスを着せた。
「私が赤いドレスを着て、ブロンドのウィッグをつけたら、みんな笑いますよね」
「それがどうしたの?」
セラフィナはきりっとした眼差しで言った。
「そこであなたが恥ずかしがったら、それで負け。堂々としていれば、誰も笑いはしません。笑わせてはだめ」
「……そうですね」
「それに、観客がどうこうなんて、どうでもいいこと。あなた自身が変ろうとしている覚悟を、大事にして。こんな大胆なことをしているんだぞ、という気持ちが自信になるわ」
「はい」
流音がフィッティング台に立ち、サイズを調整してもらっていると、セラフィナが奥の部屋から小さなきらめく箱を持ってきた。
「エドガー、これをルネさんの右側の髪につけてあげなさい」
それは星形のサイドクリップで、光を受けるたびに、小さな星々が夜空のようにきらめいた。
流音は鏡に映る自分を見つめ、指でそっと触れた。
「なんてきれいなの……」
「気に入ってくださった?」
「はい、とても。まるでダイヤモンドみたい」
「そうよ。本物のダイヤモンドなの」
「すごい」
「お好きなら、あなたに差し上げます。これをつけて演奏すれば、あなた自身もきっと輝くでしょう」
「よいのですか?」
「大切な人からいただいたものですが、その方も、あなたがつけてくださったらきっと喜んでくれると思うわ」
「ありがとうございます」
マルヴェナが一歩下がって、両手を腰に当てて眺めた。
「華やかで、最初に見た時と同じ方とはとても思えません。まるで大輪のダリアの花のようです」
「私、ブロンドでやってみようかしら」
流音が頭を上げると、髪の星がきらりと光った。
「早まらないで。そこまでしなくてもいいと思うけど」
エドガーは微笑みながらも、胸の奥には不安がある。
本当に、ブロンドで舞台に立っていいのだろうか。
それに、母が言った「大切な人」とは、いったい誰のことなのだろう。
*
エドガーはプラハのホテル前で車を止め、流音を降ろした。
「ぼくはこれからロンドンに帰るけど、本番の日には必ず戻るから。音合わせとリハーサル、がんばって」
「はい」
流音は腕に抱えた赤いドレスを胸に抱きしめ、「またね」と手を振った。
彼女は部屋に戻ると、すぐに楽譜を広げ、指輪を外して机の上に置いた。
ピアノを弾くときは指輪をつけない。
彼女はメロディを口ずさみながら、今日の景色や匂い、風の感触を楽譜の余白に走り書きした。
これから二日間のリハーサル、そして本番。
ギリギリで通過したり、トラブルを起こしたりした自分だけれど、今回という今回は、すべてを出し切って弾こう。
いつか、子どもや孫に、この特別な体験を語れるように。
一方、エドガーは車を止め、ヴルタヴァ川の流れを見つめていた。
目は川を見ていても、心は流音のことばかりだった。
数日すれば会えるのに、別れがこんなに寂しいものだとは知らなかった。
あの子がこれから大きな戦いにひとりで向かうと思うと、胸が痛んだ。
できることなら、そばで支えてやりたい。でも、それはできない。人は肝心な時には、いつも、ひとりで戦わなければならないのは、知っている。
四人の挑戦者の中で、流音は最年長。中には十三歳の少女もいる。
自分は何を言っているのだろう。
どうやら、すっかり彼女に惹かれてしまったらしい、とエドガーは苦笑した。
「お兄さん」
えっ。
「お兄さん」
泣いているような、か細い声が聞こえた。
もう一度呼ぶ声がして振り向くと、銀色の髪のデリオンが立っていた。




