3 ヤナーチェクの「霧の中で」とは何?
バス事故から二週間経ったある日、漆黒のアストンマーティン・ヴァンキッシュが、ミルトン・キーンズ大学病院の駐車場に滑り込んだ。
透明な雨粒がボディに散り、曇天の下で鈍く光を返すその姿は、まるで夜の獣のようだった。エンジン音は低く、深く、まるで遠い記憶のうめき声のように響いた。
運転席から降り立った男は、長身で痩身。黒いコートの襟を立て、無言で建物を見上げた。 彼は、エドガー・フィルモア。
プラハの森の屋敷で生まれ、幾世紀を生きてきた吸血鬼の家系の長男。しかし、彼は人間になりたいと願い、跡継ぎを弟のマルティマに譲り、ロンドンで学び、緊急医になったのだ。
エドガーはドクター・ハミルトンの研究室に寄って、長谷川流音の回復の経過を尋ねた。彼女の回復は奇跡的で、まったく信じられないほどだった。ドクター・ハミルトンはエドガーの腕を辟易するほど絶賛した。これだけ褒められると、消えたくなる。
「ドクター・フィルモア、回復記録は逐次記録してあります。今度の世界医学会で報告するつもりですが、よろしいですか」
「ああ、かまいません。それに、これからはエドガーと呼んでください」
エドガーとしては、本当は断りたいところだが、それはできまい。彼はやれやれと思いながら、苦笑いした。
「患者を診てきます」
エドガーが病室の扉を開けると、流音は患者着の上に薄いピンクのカーディガンを羽織り、ベッドに腰かけていた。
彼女の顔には、二週間前の苦痛や痕跡はなく、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。
彼女がカーディガンと患者着を脱ぎ、エドガーが傷跡の治り具合を確かめた。白い肌にはピンク色の手術痕が残ってはいるが、腕は正常に動く。 エドガーは心に不思議な鼓動を感じながら、傷の部分を押した。
「もう痛みませんか?」
「大丈夫です」
と流音が頷いた。
「フィルモア先生が助けてくださったのですよね。ドクター・ハミルトンが教えてくれました。奇跡だって、何度も言われていました。腕を失いかけていたって。私は気を失っていたので何も覚えていないのですが、すべてが夢みたいです。本当に、ありがとうございました」
「ところで」
彼があの日、深夜バスでひとり、どこへ向かっていたのかと尋ねると、流音はまた恥ずかしそうな表情をした。
「あのう、湖水地方です。グラスミアに行こうとしていました。ワーズワースが住んでいた場所です」
「詩人のワーズワースですか」
「私、彼の詩が好きなのです。あそこは、彼が住んでいた場所で、世界で一番美しい場所だと言っていましたから、訪ねてみたいと思いました」
「ああ、『I wandered lonely as a cloud』ですね」
彼が詩の一部を口ずさむと、流音が驚いたように目を見開いた。
「先生も、彼の詩がお好きなのですか?」
「そのくらいは、イギリスでは誰でも知っています。ぼくは医学のこと以外、何も知りません」
「誰でも知っているのですか。ああ、日本なら」
「日本なら」
「ラジオ体操第一」
「ええっ」
「あ、すみません。忘れてください」
彼女は突然とんでもなく馬鹿なことを言ったと気づいて、身体を丸めて、真っ赤になった。
エドガーは気づかないふりをして話題を変え、彼女の英語が流暢な理由を尋ねた。
「ニューヨークのジュリアードに三年も留学していました。それにしては、上手くないでしょう」
「うまいですよ。ところで、ミス・ルネはまだ湖水地方に行ってみたいですか」
「はい。でも、もう無理です」
「では、ぼくがグラスミアまで連れていってあげましょうか。今日は車で来ていますから、バスより快適ですよ」
その言葉を聞いたとたん、流音の瞳に恐怖が浮かんだ。
「心配いりませんよ。もう、あなたの血は吸いませんから」
エドガーの言葉を冗談だと思い、流音がくすっと笑った。
「私、男の人と旅行をしたことがないんです。小さな事務所に所属しているのですが、そこのマネージャーとは地方公演には行きましたけど、彼はおじさんですし」
「じゃあ、ぼくのこともおじさんだと思ってください」
「いいえ、先生は若くて、かっこいいです」
流音は 自分で言って、また赤くなった。
よく赤くなる人だと思いながら、エドガーはその言葉に少し戸惑いつつも、「ありがとう」と微笑んだ。
しかし、その一瞬、彼の顔に数世紀を生きた者の哀しみが、影のように差したのを、彼女は気づいてはいない。
流音は、子供の頃からピアノ漬けの生活だったから、演奏旅行以外では、どこにも行ったことがないと言った。 ロンドンで小さなコンサートをした後、彼女はこの後、プラハに行くことになっている。プラハ国際ピアノコンクールに出場するためだ。
「だから、今回の旅行は初めての大冒険のつもりだったのに、バスに乗ってすぐ事故に遭ってしまって……」
「それなら、なおさら、グラスミアに行かなくてはならないでしょう。その世界一美しい場所に」
「先生は行ったことがないのですか?」
「あなたはプラハのコンクールのことを言いましたが、チェコはぼくの祖国です。プラハを出てからは、勉強と仕事ばかりで、休暇旅行には行ったことがないです」
「プラハの出身ですか。なんて、すてきなの。私、お聞きしたいことがたくさんあります」
「何を聞きたいのですか」
「コンクールの課題曲がヤナーチェクの『霧の中で』なのです。プラハのことをよく知らないと弾けないと聞いています。歴史は勉強しましたが、雰囲気が実感できていません。だから、少し早くプラハに行こうと考えていたのです」
「ヤナーチェクですか」
「私、国際コンクールの予選に通過したの、初めてなんです。書類とテープの審査ですけれど、これまでもう二十回くらい落ちて、今度、奇跡的に受かりました。でも、もうここまでですけど」
「ヤナーチェク、まかせてください」
エドガーはそう言いながら、目をしばたたかせた。「では、そのことは、グラスミアに行く車の中で、お話ししましょう」
「今から行くのですか?」
「そうですよ。それとも、もっと病院にいたいですか」
「いいえ。早くここを出たいです」
「では、あなたは退院の手続きをしてきてください。ぼくは車を回してきますから。ついでに、ガソリンを入れてきますから、急ぐことはないですよ」
「はい」
エドガーは急いで車に戻り、ヤナーチェクをチェットDCで検索してみた。チャットDCとは、吸血鬼が使うAIである。彼は、実際にはそんな作曲家がいたことすら知らなかった。
彼が実家で聞いていたのは、レクイエムばかりだったから。




