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29. 第二次予選の結果

ふたりは、エドガーが何度か来たことがあるという家庭的な雰囲気のレストラン「ウ・マミンキ」で昼食をとることにした。


木のテーブルには手作りのランチョンマットが敷かれ、厨房からは肉を煮込む甘い匂いが漂ってきた。


「ウ・マミンキって、どういう意味ですか?」

「『お母さんのところ』みたいな意味だよ」

「いい名前ね。『うまみ』のことかと思ったわ」


「『うまみ』は、どういう意味?」

「日本語で『おいしい』っていう意味です」

「そうなのか。日本語、習ってみたいなあ」

「教えてあげますよ」


「そういえば母が、なぜか、日本語学習の本を持っていた」

「お母さんは、日本語ができるのですか? 」


「できないと思うけど。前に時々、なんとかっていう日本語を口にしていたことがあったけど、何だったのかなぁ」


「何かしら。気になります」

「日本の古いおまじないだって言っていた気がする」

「それ知りたいです。思い出したら、教えてください」


おいしい匂いが漂ってきて、料理が運ばれてきた。


エドガーはチェコの代表的な煮込み料理スヴィチコヴァ(牛肉のクリームソース煮)を選び、流音はグヤーシュ。


グヤーシュはパプリカの効いた肉のシチューで、元はハンガリー料理だが、ここではチェコ風にアレンジされている。流音はこの料理が気に入り、ホテルでも何度か食べていた。


食事を終えた時、エドガーが言った。

「ぜひ案内したいところがあるんだけど。時間はよいですか」

「大丈夫です。時間はたっぷりあります」


ふたりが歩き出すと、鳥のさえずり、教会の鐘、そして村人たちの歌声が耳に入ってきた。


流音はそれらがまるで協奏曲のメロディと重なっているように感じた。


針葉樹の間を抜けると、地面には薄い苔が絨毯のように広がり、歩くたびに足音は吸い込まれるように静かだった。空気には樹脂の匂いが混じっていた。


「こういうメロディが、第二楽章の中にあったわ」


流音は「対話をするように弾きなさい」というドヴォルザークの言葉を思い出し、木々の間から差し込む光を指でなぞるようにして見つめた。


森を抜けると、明るい草原が視界いっぱいに広がった。


風が吹き、草が波のように揺れる。遠くに教会の尖塔が白く突き出ている。


流音は靴を脱ぎ、裸足で草の感触を確かめた。冷たく湿った刈り草の香りが足裏に伝わった。


「この広がりは、第三楽章だわ」


流音が顔を上げると、雲がゆったりと流れていた。


「ルネは何にでも、ドヴォルザークに結びつけるね」

ようやくエドガーが笑ったので、流音はうれしくなった。


「今になって、やっとわかってきたように思うの。もう弾くことはないのに、少しわかったら終わりって、よくある話じゃない?」

「そうかもしれない。で、本当にピアノはおしまいなのかい?」


「はい、ここまでです。私、これでも、精一杯、やってきたのですよ。これからは、別の人生を歩きます」

流音がすっきりした表情で答えた。


丘の上に着いた時、エドガーが急に片膝をついた。

「エドガーさん、なんですか、それ」

と流音が吹き出した。


えっ、違った?

エドガーの顔が驚いていた。母がくれた本にはそう書いてあったのだけれど。

とにかく、今は進めるしかない。


彼はもじもじしながらポケットに手を入れ、指輪を取り出した。


「ルネ、きみが日本かアメリカに帰っても、ぼくと付き合ってくれませんか」

流音は一瞬驚いて、「ええっ」という顔をした。


「これって、お付き合いの申し込みですか? プロポーズですか?」

「それって、違いがありますか?」


「はい。お付き合いは結婚を前提とした関係で、プロポーズは結婚に直行ですよね。でも、エドガーさんのスタイルはプロポーズなのに、言葉はお付き合いの申し込みみたいですが」


「では、ルネが好きなほうを選んでください」

「それって、変な話ですが……どうしましょうか。お友達としてのお付き合い、そういうことでいいのですか?」


「あのう、違います。ぼくと人生を歩んでくれませんか。ぼくが人間になったら、結婚してください」


「またまた疑問です。どうして人間になってからでないとだめなのですか? 私は今のままのエドガーさんが好きです」


「でも、結婚して子どもが吸血鬼だったら困るだろう。子どもに、いつも血を求めて生きるなんて思いはさせたくないから」


しばらく黙った流音は、うんうんと頷いた。

「ああ、そういうことですね。わかりました」

「それで、返事はもらえますか?」


「もちろんです。はい」

「ありがとう」


「私、本当は、すごくうれしいんです。これまでピアノだけに生きてきたけど、私の実力、ここまでだってわかっているんです。運よくコンクールに出られることになったのに、事故に遭い、それを助けてもらった上、知らない世界を見せてもらって、生きるって楽しいと思ったんです。だから、こちらこそ、ありがとうございます」


エドガーが指輪を流音の薬指にはめたその瞬間、スマホの着信音がピンとなった。


「私の?」

流音がスマホを確かめようとすると、追いかけるようにエドガーのスマホもピンと音を立てた。 ふたりは顔を見合わせてから、メールを開いた。


流音の受信箱にはピアノコンクール運営委員会から、エドガーの方にはベルダからのメールが届いていた。


委員会からのメールには、流音が二次審査を通過し、ファイナルに進むことになったと書かれていた。


流音は「きゃーっ」と叫んで、丘を一目散に駆け下りていった。


エドガーは予想外の反応をするひとだと笑いながら、ベルダからのメールを読んだ。


ベルダは、審査会ではふたりはすんなりと決まったが、あとの一人を誰にするかで審査員の折り合いがつかず、「悪魔のソナタ」を弾いたピアニストを外せないとの女性審査員の主張で妥協し、四人通過となった経緯が書かれていた。


その四人とは、


マギー・カガ(アメリカ、13)


イジー・プロハースカ(チェコ、16)


ミハイル・ペトロワ(ロシア、18)


ルネ・ハセガワ(ジャパン、21)

である。


息を切らして戻ってきた流音が、赤い顔をして、せかすように言った。


「明日と明後日がシンフォニーとの打ち合わせで、その次の二日が本番です。私、絶対にここまでだと思って気を抜いていたから、練習しなくちゃ。今すぐ帰りたいです。プラハへ連れて帰ってくれますか?」


「わかったよ。行こう」

「ありがとうございます。奇跡だわ、受かっちゃった」


二次を通過したことを知った流音の顔は、急に自信に満ちた表情に変わっていた。

そんなことってあるかな。


いや、自分がそういう目で見ているだけかもしれない、とエドガーは思いながら流音の手を取った。



           



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