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26. ドヴォルザークの村

エドガーが作ってくれた朝食を食べ終えると、流音は「私に片付けさせて」と腕をまくった。


「今、手を傷つけたら大変ですから、ぼくがします」

「大丈夫ですよ、皿洗いくらい。それに、もう弾きませんから」


「そんなこと、わかりませんよ」

「ああ、そうね」と流音が笑った。「私が洗ったら、高価なお皿やカップを割ってしまうかもしれませんよね」


「ルネはよく割るのですか?」

「ほんのたまにですけど、普段はあまり家事をしませんから。でも、これからはちゃんとしますよ。そういうことは、本当は好きなのよ」


「あっ」

流音が急に何かを思いついたような顔をした。 「片付けが終わったら、居間に来てください。お礼をしたいんです」


エドガーがキッチンで皿を洗っていると、奥の部屋からピアノの音が静かに響いてきた。音に導かれるように彼が居間へ向かうと、流音がピアノの前に座っていた。


「私にできるお礼です。この曲は舞台で弾くことはないので、これは私のさよならコンサートです。聴いてください」


彼女は鍵盤に指を置き、静かに演奏を始めた。

エドガーはアンティークの赤いひじ掛け椅子に腰を下ろし、そっと目を閉じた。


音に神経を集中させると、まるで静かな湖畔に佇んでいるような情景が広がってきた。風が水面を撫で、遠くで鳥がさえずる。音楽はそのすべてを包み込むように、優しく流れていた。


十分ほどの演奏が終わると、流音はエドガーの方へ向き直った。


「どうでしたか?」

「とてもすばらしいと思います。ぼくには詳しいことはわかりませんが、どこか懐かしい気持ちになりました」

「チェコの作曲家ドヴォルザークの曲よ」


流音が弾いたのは、ドヴォルザークの「ピアノ協奏曲 ト短調 作品33」だった。


「ファイナルの課題曲で、三楽章までありますが、今は第二楽章を弾いてみました」


「どんな曲なのですか?」


「この協奏曲は『協奏曲らしくない協奏曲』と言われています。技巧を誇示するのではなく、オーケストラとの対話を大切にしているんです。彼が生まれた『森と山に囲まれた盆地』の風景に、彼自身の心象を重ねて描いたような作品だと思います」


「そうなんですか。じゃあ、演奏のお礼に、ドヴォルザークが生まれたネラホゼヴェス村に連れて行ってあげましょうか。行ってみたいですか?」

「もちろん行ってみたいですが、そんな簡単に行けるんですか?」


「行けますよ。車で一時間もかかりませんよ」

「飛んで、じゃなくて?」

「運転して行きますよ」


「そんなに近いのですか。じゃ、ドヴォルザークはプラハの近くで生まれたのですね」


「そうですよ。その村から遠くない場所に知り合いの家があるのですが、少し寄ってもいいですか?」

「もちろんです。そんなところに、お知り合いがいらっしゃるのですね」


「それは知り合いというより、遠い親戚のような関係で、以前、父が働いていた城です」


「家って、お城なんですか。お城に住んでいる方がおられるなんて、びっくりです」


「と言っても、今は城に誰も住んでいません。でも、あそこには図書館があるので、少し覗いてみたいのです」


「『天使の詩』という映画を知っていますか」

「いや。何ですか、それは」


「天使たちが、古い図書館で、人間を観察する場面が何度も出てくるのです」

「どんな映画ですか」


「 天使のダミエルは、サーカスの空中ブランコ乗りの女性マリオンに出会い、彼女の孤独に触れて、恋をします。そして、彼は人間になって彼女と共に生きようと思うのです」


エドガーが、弾かれたように流音の方を振り向いた。


「見たいですか」

「ぜひ」

「プラハにはレンタルビデオ店はありますか」

「どうだろうか」


「じゃ、アマゾンで探してみます。英語のタイトルは『Wings of Desire』だったかしら」

「Wings of Desire(願いの翼)……」


「見つかったら、エドガーさんと一緒に見たいです」

「いいね」


*


朝の片付けを済ませると、ふたりは車に乗り込み、プラハ郊外の屋敷を後にした。


車は緑の丘や森、広がる畑の間を縫うように走っていった。

小さな村を通り過ぎると、赤茶色の屋根の農家、笑いながら朝の散歩をする子供たち、のんびりと日向ぼっこをする猫の姿が見えた。森の間から差し込む朝の光が、風に揺れる麦畑や林の葉を、やわらかな黄金色に染めていた。」


流音は窓の外に目を向け、過ぎていく景色を熱心に眺めていた。 エドガーはサングラスを持ち上げ、前方を指さした。

「あそこが、ドヴォルザークが生まれたネラホゼヴェス村です」


森の緑に映える赤茶色の屋根、その中にひときわ高くそびえる尖塔が見えた。


「ああ、こういう風景を、ドヴォルザークは音楽にしたんですね」


流音はふと、第二楽章のある部分を、もっと牧歌的に弾いたほうがよかったかもしれないと思った。

彼女の指は、無意識に膝の上でドヴォルザークの旋律をなぞっていた。

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