25. 母親の初恋
エドガーは流音のもとへ戻ろうと、庭の奥へ向かって歩いていると、甲高い叫び声が耳に飛び込んできた。
「助けて!」
彼の心臓が跳ね上がった。
デリオンが狼になって、流音を襲ったのかもしれない。
息を切らして駆け付けると、彼の視界に入ったのは、ブランコのように揺れるハンモックの中で、流音が必死にもがいている姿だった。
布に絡まった手足をばたつかせ、抜け出せずに焦っている姿は、まるで網にかかった魚のようだ。
「何をやっているんですか」
エドガーが思わず呆れた声を出した。
「下りたいのに、下りられないの」
流音の髪の毛が乱れている。
「揺らさないで。立ち上がろうと焦るから、揺れるんですよ」
彼はそう言って、両手でハンモックの端をしっかり押さえた。
「まずは動きをストップしてみて。お尻を低くして、四つん這いになって、横から出るイメージで」
流音が動きを止めると、ハンモックの揺れも止まった。
「ぼくが押さえているから、片方のつま先を地面につけてみて」
片足が地面に触れた瞬間、流音が安堵の息を漏らし、もう片方の足もゆっくり下ろし、ぴょんと飛び降りて地上に降りた。
「ハンモックって、下りるのが大変なのね」
「簡単ですよ。ルネは運動音痴ですか?」
「だって、手を怪我したら困るからって運動を禁止されていたのよ。でも今日からはやります。バレーボールも、ドッジボールも、自転車も!」
「でも、コンテストで、ファイナルに残っているかもしれませんよ」
「私はここまでですから、今日から自由です」
と流音が、胸を張った。
今は、そういう時に自信を示す場面ではないのではないかとエドガーは思う。彼女は、意外と呑気屋なのかもしれない。
「ハンモックに揺られながら考えたんです。これから、どうやって生きていこうかって。子供にピアノを教えて、それで学校に行く。それからジムにも行ったり、車の教習所にも行こうって」
「盛りだくさんですね」
「そうなのよ」
流音がうれしそうに笑ったから、エドガーもつられて微笑んだ。
「私、お腹が空きました。家に、私が食べられるものがありますか?」
「ありますけど。あなたは、ぼくを見るといつもお腹空いたって言いますね」
「そうなんです。本当に空くんです」
「じゃあ、ぼくがイングリッシュ・ブレックファーストを作ります」
「チェコのじゃなくて?」
「ロンドンの寮で、学びました。ここにいた時は、朝食を食べていなかったから」
「イングリッシュ・ブレックファーストって何ですか?」
「ベーコン、ソーセージ、スクランブルエッグ、トマトのグリル、マッシュルーム、ベイクドビーンズ、ブラックプディング、トーストです」
「ベーコンやソーセージはアメリカでも食べたけど、ベイクドビーンズとブラックプディングは知りません。ブラックプディングって、何ですか?」
「豚の血のソーセージです」
「へぇっ」
流音の目が大きくなった。
「イギリス人の祖先も、吸血鬼ですか?」
「ルネは、何を言っているんですか。面白い人ですね」
エドガーは苦笑し、庭の木々を見上げた。
柔らかな風が葉を揺らし、朝が白くなっていく。
「そういえば、お母さまから面白いことを聞きました」
「母が何か?」
「いつか日本に行ってみたいんですって」
「母はロンドンにも来たことないのに、日本に行きたいなんて。そんなこと、初めて聞きました」
「若い頃、日本人に恋したことがあるんですって。それも、初恋!」
「そんな話も、聞いたことがないよ」
「プラハで見かけて、一目で恋に落ちたんですよ。すごくかっこいい人で、お母さまから声をかけたんですって」
「まさか。本当ですか?」
「本当だと思います」
「いつのことですか」
「あっ、まずい、言っちゃダメって言われてたのでした」
流音がちょっと舌を出した。
「今聞いたこと、忘れてください」
「もう聞いちゃったから、忘れられませんよ」
「絶対忘れてください。おしゃべりだと思われるじゃないですか」
「ぼくは記憶がいいので、今の話も、ハンモックのことも、全部覚えています」
「エドガーさんは、いやな人ですね」
エドガーはプロポーズの計画を思い出した。
いやな人と言われてしまっては、告白ができない。ここで、少し挽回しなくてはならない。
「ああ、そうだ。流音のおじさんの写真をもう一度、見せてください」
流音がスマホの写真を見せた。
「このおじさんの隣にいる女の子、母に似ていませんか」
「そうかしら。そう言えば、そんな気もしますが、お母さまは黒髪ですが、この方はブロンドですよね」
「そうですね、母のはずがない。チェコにはこういう顔は多いですから。流音がさっき言ったことは全部忘れたので、心配しないで。さあ、中に行きましょう。特別においしい朝食を作ります」
ふたりは庭の朝露に濡れた古い枯草を踏みながら、楽しそうに、屋敷の方へ歩いていった。




