24. 審査員クレール・デュポンの失踪
ベルダは鳥に化身し、薄暮のプラハの空を何度も迂回した。
カレル橋にひとつの人影を見つけた。
クレール・デュポンに違いない。
彼女はヴルタヴァ川の流れをじっと見つめていた。
「灯台下暗しとは本当だわ。あんなところにいたのね」
思いつめたような顔で手すりに手をかけている彼女を見て、ベルダは人間の姿に戻り、橋へと降り立って声をかけた。
「まさか、川に飛び込もうというのではありませんよね」
ベルダはフランス語で呼びかけた。クレールが肩越しに振り返った。
「あなたはフランス人?」
「いいえ、チェコ人です。でも、ミュンヘン大学で遺伝子系譜学を研究しているドクター・ベルダ・フォン・エーレンベルクです」
「フランス語がお上手だから、フランス人かと思ったわ」
ベルダはそばに近づいた。
「あなたはピアニストのクレール・デュポンさんですよね」
「どうしてわかったの?」
「世界的に有名な方ですし、今、みんながあなたの居場所を探しています」
クレールは一瞬、目を伏せた。
「噂って、早いのね」
「今は特に。SNSがありますから、何でも世界中に秒速で広がります」
「そういうことよね」
クレールは深くため息をついた。
「ところで、ドクター・フォン・エーレンベルク、こんな早朝にあなたはどうしてここに?」
「ベルダと呼んでください。今、個人的な用事でプラハに来たのですが、コンクールのことを知り、ぜひ聴いてみたくて滞在を延ばしたんです」
「二次審査が延びているから、ファイナルは明後日以降になるわ。日程は大丈夫なのですか?」
「ええ。審査員の中に、意見が合わない方がいると聞きました」
クレールの瞳が暗く光った。
「ほんと、信じられないの。あんな奇跡のように素晴らしい演奏に、ゼロ点をつける審査員がいるなんて」
「もしかして、その演奏者は女性で、審査員は年配の男性ではありませんか?」
「そうだけれど」
「演奏者が男性でも同じ反応をしたでしょうかね。年配の男性ときたら、革新的な女性を嫌うことが多いですから」
「なるほど……。私にも思うことがあるわ。あなたの言う通りね」
ベルダは少し間を置いてから言った。
「私は科学者で音楽界には詳しくありません。でも、マダム・キュリーやロザリンド・フランクリンの例を思い出します。フランクリンはDNAの二重らせん構造の発見に不可欠なデータを提供したのに、功績は男性科学者のほうが先に認められました。彼女が正当に知られるようになったのは、ずっと後のことです。マダム・キュリーだって、そうです」
クレールの肩の力がわずかに緩んだ。
「ベルダ、あなたとは気が合いそうね。音楽の世界も同じよ。知っている? メンデルスゾーンには姉がいたことを」
「いいえ」
「その姉はファニーという名前で、素晴らしい作曲家だったの。弟より独創性があり、深みのある作品を残したと一部の専門家に評価されているけれど、一般にはほとんど知られていないのよ」
「クレール、あなたはこのまま審査を放棄してパリに帰るつもりですか?」
「あんな人の顔、二度と見たくもないわ」
「あなたの気持ちはよくわかります。でも、若いピアニストたちの将来がかかっていますよ。ここで投げ出して、いいのですか」
「私に何ができるの? あの人はチェコ音楽界の権威よ」
「三人の中で、あなただけが現役のピアニストです。もう少し頑張ってみては? 女性のひとりとして、ここで諦めるなんてできますか」
クレールはしばらく沈黙し、肩をすくめた。
「そうね……。ねぇ、この時刻でも開いている喫茶店を知っている? 濃いコーヒーでも飲んで、頭を整理したいの」
「知っていますよ。ご案内します」
「モナミ《私の友達》、ベルダ。あなたも付き合ってくださる? 一緒に作戦を考えてほしいの」
「喜んで、モナミ・クレール」
遠くで聖ヴィート大聖堂の鐘が鳴り、夜明けが、カレル橋の上のふたりの肩を淡く染めていた。




