22. 母の指輪
エドガーが応接室に入ると、流音の姿はなかった。
「モルティマとデリオンが、庭を案内してあげることになったのよ」
母セラフィナがそう言った。
「明るくて、とてもよいお嬢さんね。あなたは女性に興味がないと思っていたから、とてもうれしいわ」
「ぼくも、女性を好きになることなんてないと思っていたのですが」
「あなたは一生結婚せず、孤独に、学究の道を歩むのかと思っていたの。それが……、結婚を考えているの?」
「これまで、結婚なんて考えたこともなかったんです。それなのに……」
「出会いとは、そういうものよ」
「お母さんの出会いも、そうでしたか?」
「そういう夢みたいな出会いは、なかったの。私の結婚は家同士が決めた結婚。お父さんは二十歳も年上で、すでに王国の大臣。すでにいい歳で、周囲から早く結婚しなさいと押されて、血筋のつながらない家の、元気な娘を探していたのよ。あの人の頭の中は、王家のことばかりで、全然ロマンチックでなかった。私はまだ十九歳で、結婚なんかしたくはなかったけど、仕方がなかったの。あの人ったら、結婚しても仕事第一で、家にはほとんど帰って来なかったから、すごく落胆したわ」
「でも、ぼくはおふたりが言い争ったりしているところは、見たことがないです」
「はじめは腹が立つことばかりだったの。でも、ある時、これからは、うまくやっていこうと決めたのよ」
「ある時?」
「あなたが生まれたからよ。それはかわいい赤ちゃんで、私、夢中になったわ。もうこの子がいれば、何もいらないって、思ったくらい」
「お母さん、ありがとう」
「こちらこそ、私のところに、生まれてきてくれて、ありがとう。そのあなたが、結婚だなんて。私はうれしくて、仕方がないの。プロポーズの仕方は知っているの? 指輪は用意したの?」
「申し込む時に、指輪を贈るんですか?」
「そうよ。そんな普通のことも知らないの?」
「でも、ぼくたちは出会ったばかりだし」
「時間は関係ないのよ。運命の人かどうかは一瞬でわかるものよ」
「お母さんは、どうしてそういうことを知っているのですか」
「これだけ生きていれば、いろいろとわかるものよ。好きだって一瞬でわかっても、結ばれることは少ないわ。だから、努力だけはしてみなさい」
セラフィナは指輪を抜いて、息子に渡した。
「大切なものではないですか?」
「義母からいただいたもの。あなたは私の何より大事な息子。あなたの大切なお方に渡しなさい」
セラフィナは息子を抱きしめて、髪の毛をいつもより強く撫でた。
「ありがとう、お母さん」
その時、犬の吠える声と、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
「今、狼の声が聞こえませんでしたか?」
「たしかに聞こえたわ」
「まさか、デリオンじゃないでしょうね。ぼく、見てきます」
「それがいいわ。お願いね」
エドガーは急いで庭へ向かった。
庭は広く、奥へ進むにつれて木々が鬱蒼と茂り、昼間でも薄暗かった。枝葉が風に揺れてざわめき、古い落ち葉の上を踏むたびにかすかな音がした。
一本の大きな樫の木の前に、モルティマが所在なげに立っていた。しかし、流音とデリオンの姿が見えなかった。
「ルネはどこ?」
エドガーが顔色を変えて尋ねると、モルティマは唇に指を当て、木の間を指さした。 その指の先には、二本の白樺の間にハンモックが吊るされており、流音がそこに静かに眠っていた。
「ハンモックを見つけてはしゃいで、飛び乗ったら、そのまま眠っちゃったよ。天真爛漫な人だね」
「デリオンは?」
「月夜でもないのに、さっきルネさんのピアノを聴いてから様子がおかしくなって、庭に来たら、突然叫び出して走って行ってしまった。だから、ぼくがここで見守っているんだ」
「ありがとう。ルネは演奏があって大変だったし、夜だから眠くなるのも無理ない」
「ぼくはデリオンを探してくる。犬が激しく吠えていたから、野犬を追いかけているのかもしれない」
「頼むよ」
エドガーはジャケットを脱いで流音にかけ、自分は木の下で膝を抱えて座り込んだ。




