20. 幼馴染のベルダ
エドガーとベルダは、二階にある彼の部屋に行った。
ブラインドが下ろされた室内は薄暗く、デスクライトの光だけが空間をかろうじて照らしている。中央の大きな机には、遺伝子配列の図面や読みかけの医学書、飲みかけのマグカップが雑然と並んでいた。
壁には大学の卒業証書や学会での受賞記事が額縁に収められて飾られている。彼自身は飾るのを好まないのだが、母が勝手に額に入れて飾ったので、そのままにしてある。
「懐かしいわ」
ベルダは机にそっと触れながら言った。「子供の頃、よく一緒に勉強したわよね。クラスの一番を競い合って」
ふたりとも、ドルハースラフナ王国国立小学校に通っていた。
「ベルダ、きみはいつも負けず嫌いだった」
「でも、だいたい勝っていたのはあなたよ。私が上だったのは音楽とか美術くらい。音楽の授業の時なんか、無視して、本を読んでいた」
ベルダは笑いながら首を振った。
「それなのに、あなたがピアニストと恋に落ちるなんてね。皮肉だと思わない?」
「世の中なんて、そんなもんだろう。ああ、そうだ。今夜、コンサートホールでギルガルドに会ったよ。仲間と来ていた」
「ヴァルナス、リュシフル、ノクス、みんな来ていたでしょ。私もドイツのリュシフルから連絡をもらって、一緒に来たのよ」
「ギルガルド・ハイド、彼ね、私に気があったのよ。私にはその気はなかったけど」
「彼は悪いやつじゃない」
「あなた、ばかね。好きになるのに『いいやつ』か『悪いやつ』かなんて関係ないでしょ。そういう意味なら、私だって『いいやつ』のはずよ」
「そうか。だから、コンサートには行かなかったのか」
「私、そんな小さな女じゃないわよ。ギルガルドとも、いい友達。今夜は新設中の研究所のことで、フィルモア氏に相談することがあったから」
フィルモア氏というのはエドガーの父親で、彼はドルハースラフナ王立財団の理事長をしている。
「建設の状態が遅すぎるって、叱られたわ。急いでいるのよ、あの子の状態が悪くなってきているから」
「そうなのか」
エドガーの表情が曇った。
「こっちのことは、私たち、血液五人組にまかせて、あなたは自分の道を行けばいいのよ」
「ありがとう」
「子供の頃は楽しかった。ずっと一緒にいられると思っていたのに。あなたが中学からイギリスへ行ってしまって、ライバルがいなくなって寂しかったわ」
「ベルダはミュンヘンに行って博士号を二つも取ったんだろ?ドイツで博士号を取るのは特別に難しいのに」
「ドルハースラフナ王国財団の、奨学金のおかげよ」
「エドガーこそ、最年少で卒業して、しかも緊急医をやりながら遺伝子研究までしてるじゃない。進み具合は?」
「それが、だめなんだ。だから、相談したかった。肝心の遺伝子は見つけた。でも、どうしても取り出せない。だから、これを見てほしいんだ」
エドガーは論文の束を渡し、スマホの写真を見せた。ベルダは食い入るように目を走らせる。
「これを見る限り、科学的には問題ないはず。すごいわ、ここまでできたなんて。でも、その遺伝子、何かに執拗に縛られているみたい。科学を超えた、呪いのような力に。でも、この間、本を見つけたわ」
「どこで。何の本?」
彼女はうーんと頭を押さえた。
「この間、この家の図書館で、偶然にある本を見つけたの。古い本なんだけど、吸血鬼で人間になった人の体験談が書いてあった」
「そんな人がいるのか?うちの図書館で?」
「そう。興奮して、ちょっと休んで、ゆっくり始めようと戻ってきたら、そのページだけが抜けていたわ」
「デリオンがやったのか」
「それはないわ。彼、難しいスペルなんか、読めないもの」
「その本、どこにあるか覚えている?」
「ええ」
「どこか教えてくれ」
「わかったわ」
奥の部屋の壁を押すと、ひそやかな音とともに階段が現れた。ふたりは暗い階段を降りていく。ひんやりとした空気が肌を撫で、古書と埃の匂いが鼻をついた。天井までそびえる木の書棚、苔むした石壁、細い通路。まるで地下の遺跡に迷い込んだかのようだった。
「赤革の表紙だったわ」
静寂を破るのは、棚を移動する音とページをめくる音だけだった。やがて三十分ほどたった頃、ベルダの声が響いた。
「見つけたわ」
ふたりは机に本を置き、埃を払い、中を開いた。
「本当だ。肝心の三ページだけが切り取られている」
エドガーの目が鋭くなった。
「この書庫に入れる人間は限られているから、誰がやったかは簡単に想像できる」




