2 「神の手」をもつ外科医
真夜中のミルトン・キーンズ大学の脇に、ひとりの男が静かに降り立った。
月明かりが芝生を淡く照らす中、黒いコートをまとったその男は、まるで闇から抜け出してきたかのようだった。
ドクター・エドガー・フィルモア。
その名を知る者は、彼の登場に畏敬と戦慄を覚えることだろう。
病院の玄関前では、数人の医師たちが緊張した面持ちで立ち尽くしていた。
冷たい風に吹かれながら、彼らは車のヘッドライトが近づくたびに身を乗り出し、誰が来たのかを確認する。だが、フィルモアは到着しない。彼が車を使わなくても来られることを、もちろん、彼らは知らない。
その視線を横目に、フィルモアは何事もなかったかのように、マントと帽子を鞄にしまい、無言で病院のドアを開けて、中に入っていった。
深夜の廊下を進む足音は、羽根のように軽い。
手術室からは血のにおいがする。
そこに足を踏み入れると、空気が張り詰めていて、蛍光灯の冷たい光が白衣の看護師の顔を青白く照らしている。その傍らには、白い顔をして横たわる若い女性がいる。
手術帽をかぶせられ、鼻カニューレをつけた彼女は、まるで陶器の人形のようである。どこかで見たことがある気がするが、そんなはずはない。
看護師がカルテを手渡し、フィルモアは無言で読む。
長谷川流音、二十一歳。日本人。ピアニスト。
「日本人なのか……」 エドガーが低く呟いて、もう一度見た。
彼は彼女の血に人差し指でそっと触れ、その血をなめた。
「ああ、なんて、うまい」 彼はため息をついた。
甘美な味わいが舌を満たし、彼の瞳がらんらんと輝いた。匂いといい、味といい、これほどまでに清らかな血は初めてである。
この患者は酒も炭酸も口にせず、自然の恵みだけで育ったのだろう。彼が感動するほどの、輸血をして他の血と混ぜるのが惜しいくらいの最高級の血の味だった。
その時、慌ただしく医師たちが駆け込んできた。白衣の裾を翻し、額に汗を浮かべながら、彼らは驚きの声を上げた。
「ドクター・フィルモア、どのようにしてここへ……? 玄関でお待ちしていたのですが」
「すれ違いましたかね」
フィルモアは淡々と答えた。
「そんなことより、今は一刻を争います。顕微鏡の準備はできていますか? 輸血用血液は十分にありますか」 「はい」
医師たちは言葉を失いながらも、彼の指示に従って動き始めた。
この手術は、どんなに経験のある医師でも、人間ならば無理な難易度である。
フィルモアは、まず骨を固定し、動脈と静脈を繋ぐ。 次に待ち構えるのが最大の難関、それは神経の再接続。一本一本、髪の毛よりも細い神経を繋ぎ直す作業は、集中力と技術の極限を要求する。感覚と運動の回復を確実にせねばならない。 そして、最後に筋肉と皮膚を丁寧に縫合する。
手術は十八時間に及んだ。 医師たちは交代で手術に臨んだが、疲労困憊のあまり、床に伏して眠る者もいた。看護師の一人は、その懸命な姿に涙を流しながら、フィルモアの汗をぬぐい続けた。
だが、フィルモアは衰えなかった。 夜の静けさが彼の集中力を研ぎ澄ませ、時に疲れを覚えることもあったが、そんな時は、看護師が見ていない隙を見て、患者の美しい首筋に牙を立てて、その血を吸った。
すると、彼はたちまち力づき、その瞳は再び活気を帯びるのだった。
そして、手術は大成功を収めた。
フィルモアは静かにマスクを外した。その顔は血だらけだったが、誰もが手術のせいだろうと疑う者はいなかった。
「二週間もあれば、治るでしょう」
フィルモアは患者の顔を見つめながら言った。
「な、なんとおっしゃいましたか?」
その言葉に、周囲の医師たちは目を見張った。
「ドクター・フィルモア、この傷が完治するには、一年以上はかかります。それを二週間だなんて……ありえません!」
「ありえますよ」
フィルモアは口元に笑みを浮かべた。
「二週間後に、もう一度様子を見に伺いましょう。ああ、見送りはいりませんから、休んでください。では」
彼は外に出て、再びマントを羽織り、帽子をかぶると、空に舞いあがった。
翌日、病院のロビーに置かれた新聞には、大きな見出しが躍っていた。
「神の手を持つドクター、再び奇跡を起こす」




