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19. フィルモア家の人々

エドガーは流音を抱えて、プラハの夜空を滑るように飛んだ。


「ディズニーランドよりすごいです!」

上空の風が冷たいせいか、流音の瞳が涙できらきらしている。


やがて、ふたりは郊外の森の奥に広がる屋敷の敷地の、古い枯葉の上にふんわりと着地した。


周囲は漆黒色の木々に包まれ、空に浮かぶ黒い雲のように木々が闇に溶け込んでいた。微かな風が葉を揺らし、遠くでホーホーとフクロウが鳴いていた。


屋敷は暗い。そもそも、吸血鬼の屋敷なので、灯りは必要がないのだ。


エドガーがポケットからスマホを取り出して操作すると、屋敷の黒い窓から温かい黄色の光が点灯した。同時に正面の噴水も照らされ、水は勢いよく空へと放物線を描き、キラキラと輝いた。


「エドガーさんの家には噴水があるのですか? 噴水って、公園でしか見たことがないです」


流音が歓声を上げ、スカートの裾を翻して噴水に駆け寄り、水面に映る光のダンスを、子供のように見つめた。


エドガーにとって噴水の修理は手術よりも難しく、丸一日かかったが、彼女の喜ぶ顔を見るだけで、苦労が報われたような気がした。


彼は流音を屋敷へと案内した。

重厚な扉を開けると、外観に負けないほど古めかしく、豪華な調度品がずらりと並んでいた。そこには、これまで流音が見てきたどんな場所とも違う、奇妙な時間が流れていた。


玄関では、老練な執事クロウリーと女中マルヴェナが待っており、丁重な挨拶で迎えた。


「みなさま、お待ちかねでございます」


応接間では、映画に出てくるような刺繍のあるアンティークの椅子に、父のレタナトス、母のセラフィナ、そして次男のモルティマと三男のデリオンが座っていた。


家の広さ、豪華な家具、出会ったことのないタイプの不思議な人々に、流音は圧倒されるばかりだった。


「こんにちは。ぼく、デリオン」

末弟のデリオンが椅子からぴょこんと下りて、流音の前に出てきた。


銀色の長い髪に、白い顔、青い目、目の周囲が少しピンクで、漫画の世界にしかいないような美しい少年である。


「はじめまして。流音です。デリオンさんは、おいくつですか?」

「十二歳」


「デリオンさん、あなたはまるで、プリンスみたいですね」


「ぼく、プリンスなんだよ。ね、ママ」

デリオンが母親のほうを振り向いた。


「そうよ。ママの大切なデリオン、あなたはプリンスです」


流音が両親に挨拶をしていると、応接間の扉が勢いよく開き、黒髪のスラリとした美しい女性が飛び込んできた。


「エドガー、待っていたわ」


「ベルダ」

エドガーは彼女の頬に軽くキスをし、抱きしめた。

「ぼくも、会いたいと思っていたんだ」


彼が流音の方を向き直った。

「幼馴染のベルダだよ」


「は、はい。流音です。よろしくお願いします」

流音は緊張した面持ちで挨拶した。


「こちらこそ、よろしく。あなたは日本人ね。あなたの血液を少しくださらないかしら。日本人のサンプルって、本当に少なくて」

「えっ」


「ベルダ、そういう話は後にしてくれ。ルネ、ぼくは彼女に大事な話があるから、みんな、あとはよろしく頼みます」

と彼がベルダの腕を引っぱった。


「兄さん、わかったよ」

と次男のモルティマが言った。


部屋を出る前に、エドガーは窓から夜空を見上げ、顔をしかめて、月の位置を確かめた。

「デリオン、いい子にしていろよ。今度、町に連れていくから」

「うん。絶対だよ、お兄さん。絶対に連れて行ってね」


エドガーとベルダが応接間を出ていくと、流音はどこに視線を向けていいかわからず、ぎこちなく立っていた。幼馴染だって言ってたけれど、あのベルダさんって、誰なのかしら。


「心配いらないわよ」

母親のセラフィナが流音の肩に手を置き、優しく微笑んだ。


「ベルダは学者なのよ。ベルダ・フォン・エーレンベルクといって、ミュンヘン大学の先端血液学の教授よ」


「最近、遺伝子系譜学にも足を踏み入れたんだよ。個人や家系の祖先をDNAで追跡する学問だから、誰のDNAにも興味があるんだ。たくさん集めたいんだよ」

とモルティマが補足した。

「だから、私のDNAもほしいのですね」


「ベルダはすごいんだよ。警察に協力して、八件の未解決事件を解決したんだ。最近では十年前の未解決殺人事件の犯人も突き止めたんだよ」

とデリオンが自慢げに言った。


「その事件のことを知りたいかい? ものすごくむごたらしい事件なんだ」


「ところで、ルネさんはピアニストだとお聞きしていますが」

父のレタナトスが話を遮った。


「はい」


「ピアノコンクールに参加されているとか」

「はい、第二次が終わったところです」

「うまく弾けましたか?」

「どうでしょうか。あまり覚えていなくて、三次には進めないと思います」


「コンサート・ピアニストを目指していらっしゃるのでしょう」

と母親。


「子どもの頃は夢でしたが、私には無理です」


「どうしてそう思うのですか」


「実力が足りませんし……」


「ずいぶんと謙虚なお嬢さんだこと。ルネさん、エドガーとはどのように知り合われたのですか?」

「大きなバス事故で、この腕が危うくなったとき、先生に助けていただきました」


「そうでしたか」

レタナトスは考え込むように頷いた。


「息子はあなたのことを非常に気に入っているようですが、あなたはどう思われますか?」


「私も、先生のことを特別に思っています」

「危機的な場面で助けてもらうと、その人を特別に思うのは自然ですが、」


「それには関係なく、いや、関係はありますが、あのう……」


「息子が人間ではないことをご存知ですか?」

とレタナトスが聞き、みんなが耳を傾けた。


「はい」

流音はそれには、迷いなく答えた。


「それは、どうしてですか?」

「どうしてなのか。どうしてなんでしょうか。それは言葉ではうまく説明できません。私、そういうことを話すのが苦手で……」


「では、音楽では表現できますか?」


流音は顔を上げ、彼の目を見つめた。

「はい」


「よろしい。うちにはグランドピアノがあります。古いですが、あなたの気持ちを弾いてみてください」

「はい」


流音はピアノのところへ行き、みんなもその周囲の椅子に座った。


そして、彼女は指をそっと鍵盤に置いて、ドビュッシーの「月の光」を弾き始めた。


最初の音が始まると、まるで水面に一滴の雫が落ちたように、静かな波紋が広がっていった。月の光が湖面に揺れるように、柔らかく、もろく、そしてどこか懐かしい。 星が瞬く夜空のように静かなメロディには、不安と期待が交錯する流音の心情が映し出されていた。


流音の脳裏には、エドガーと出会ってからの日々が浮かんできた。 腕を治してもらった喜び、湖水地方での穏やかな時間、そしてロンドンで別れた時の切ない気持ち。


流音の指先から紡ぎ出される音は、まるで月明かりが窓から差し込み、部屋を満たしていくかのようだった。


セラフィナはそっと目を閉じ、レタナトスは腕を組んでじっと聴き入っていたが、途中でデリオンが突然椅子の上に立ち上がり、顔を上に向けた。


「ウオー、ウオーン」

デリアンが狼みたいに吠えたので、流音は驚いて指を止めた。


母親がデリオンを椅子から下ろして、強く抱きしめた。

「この子ったら、人を驚かせるのが好きなのよ」




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