18. トゥルデルニークが食べたいです
審査の結果がなかなか発表にならないので、エドガーと流音は街に出ることにした。
夕暮れのプラハ旧市街では、石畳の道に温かみのある街灯の光が柔らかくこぼれ始めていた。 歩き始めて間もなく、甘い香りが鼻をくすぐった。
「エドガーさん、あれは何ですか?」
店のウィンドウで、職人が生地をくるくると棒を回しながら焼いていた。
「トゥルデルニークだよ。ここの伝統的なお菓子で、生地を棒に巻いて焼き、シナモンと砂糖をまぶすんだ。中は空洞だから、アイスやチョコを入れることもできる」
「私、そのトゥルデルニークが食べたいです」
流音はお菓子を指さして、足を踏み鳴らした。
「でも、今食べると、夕食前にお腹いっぱいになってしまうよ」
「大丈夫! あのくらいは平気、別腹です」
と彼女は笑顔で肩をすくめた。
「私、こういうのも大好きなの」
エドガーは列に並び、ふたつ買ってきた。焼きたてを齧ると、シナモンと砂糖の香りが口いっぱいに広がり、ふたりは自然に顔を見合わせ微笑んだ。
街を歩きながら流音の目に飛び込んできたのは、絵画のような街並みだった。 石畳は夕暮れの光に染まり、路地の角からはバイオリンの優しい音色が流れてくる。
ふたりは有名な天文時計のある旧市街広場に着いた。観光客が時計の前に群がっている。
「みんな、何を待っているのですか?」
「この時計は毎正時に仕掛けが動くんだ。もうすぐ六時だから、見ていこう」 「はい。楽しみです」
六時になると、時計の左右の四体の像のうち、骸骨(死神)が鐘を鳴らすと、上の小窓が開き、十二使徒の人形が順番に登場して回転していった。
「どうして聖人が登場する前に、死神が動くの? 縁起が悪くないですか?」
流音の質問に、エドガーは微笑みながら肩をすくめた。
「あ、ごめんなさい。忘れていました、あなたが吸血鬼だってこと」
「かまいませんよ。死神がいるのは、『死を忘れるな』という警告でしょう。人間は、誰も、死ぬのですから」
「吸血鬼は死なないのですか?」
「死にますよ。ただ、人間よりは長く生きられますが」
「エドガーさんは人間になりたいのですよね。寿命が短くてもいいんですか?」
彼は少し迷ったように流音を見つめ、微笑んだ。
「それは、いいんだ。大切なのは長さじゃないよ」
「じゃ、何ですか」
「中身の問題だろう。ただ長いというのは、つらいものがあると思うよ」
「そうかしら。私は死ぬのはこわいから、一秒でも、長く生きたいです」
広場を取り囲む歴史的な建物は夕焼けに染まり、独特のオレンジ色に輝いている。中央には宗教改革者ヤン・フスの像が威厳を持って立っていた。
広場の角にあるカフカの喫茶店に入った。
「ルネは、カフカを知っていますか?」
「はい。『変身』ですよね」
「ここが、彼の両親がやっていた喫茶店です」
店内には革張りのソファ、古びた木製テーブル、セピア色に色あせた写真。温かいコーヒーの香りが漂い、流音はホッと息をついた。
「ここは普通の人々とユダヤ人街の境にあって、彼はユダヤ人でした。著作はチェコ語ではなく、全部ドイツ語で書かれています」
「カフカはチェコ人が嫌いだったんですか?」
「そうじゃないよ」
とエドガーは少し強めに言った。
「当時、多数派はチェコ語を話していたけれど、文化人は主にドイツ語を話していた。でも、彼はチェコ人から『ドイツ語のユダヤ人』、ドイツ系住民からは『ユダヤ人』と見られ、どちらにも完全には属せない存在だった。それが作品のテーマ、孤独や不安、疎外に深く結びついていると言われている」
流音は顔を赤らめ、視線を下に落とした。
「ごめんなさい…何も知らなくて、浅はかなことばかり言って。馬鹿だと思いましたか?」
「いいや」
エドガーは微笑んで答えた。
「馬鹿だとは思わないよ。ただ、何も知らないとは思ったけど」
流音が恥ずかしさに下を向くと、「冗談だよ」と彼が笑った。
「ぼくは音楽とか、美術のことは、何にも知らない。価値を感じなかったけれど、今は後悔している。まだ間に合うかな」
「もちろんです」
「よかった。ルネも好奇心があるのだから、これから学べばいいのではないかい。今はAIもあるし、その気になれば何でも学べるだろう」
「はい。私、興味だけはあるんです、いろんなことに」
その時、スマホに連絡が入り、審査の結果は明日に延期されたことがわかった。よって、交響楽団との音合わせも一日延びるという。
「揉めているのかしら。日程が変わると、楽団の人も大変なのに。でも、私には関係ないけれど」
「どうして?」
「私は二次まで来られただけでも、奇跡なんですから。ここまでです」
またか、自信のない人だな、とエドガーが苦笑した。
自分が今日、どれだけ過激な演奏をしたのか、流音は気づいていないようだ。
「ああ、そうだわ。この間、委員会の人が連れて行ってくれたカフェ・オルフェウスの壁に、こんな写真が貼ってあったの」
流音がスマホの写真を見せると、そこには、若い吸血鬼の男と、ブロンドのかわいい女子が笑って写っていた。
「これ、私のおじさん」
と流音が指をさした。
「えっ。ルネのおじさんは吸血鬼なのかい?」
「違うわよ。そんなはずがないでしょ」
と流音が笑いこけた。
「おじさんは父の兄で、若い頃はアイドルをやっていたの。この写真はおじさんが映画を撮った時のものだと思う。映画のタイトルはたしか『月下のヴァンパイア・プリンス』だったわ」
「どんな映画?」
「昔のことだから、もちろん私は見ていないけど、うちに雑誌が残っていて、そこにね、『ヨーロッパロケ!』とか『プラハの古城で繰り広げられる禁断の恋』とかって、書いてあったわ」
「ヴァンパイアの恋なのか」
「そう。それも、日本人のヴァンパイア」
くくっと流音が笑った。「あとで、アマゾンで調べてみようかな。あるかもしれない」
窓の外では空の色がさらに濃くなり、プラハの街が夜の帳に包まれ始めた。 ふたりは広場の近くのレストランで食事を済ませ、カレル橋へ向かった。
橋の両側に立つ聖人の彫像が闇に浮かび上がり、橋の上からはライトアップされたプラハ城が壮大に見えている。
「うちに来てみたいですか」
エドガーが思い切って尋ねた。
「いいんですか。もちろんです」
「そのうちにと思っていたけど、今夜、時間があるみたいから」
「え、いつですか?」
「今から」
「えーっ、今からでは遅すぎて、お邪魔ではないですか?」
「我が家は、この後の時刻が最適です」
「ああ、そうでした」
と流音がまた笑った。
「でも、初めてお伺いするのに、こんな格好では失礼ではないですか」
「今夜の衣装は、特に、ぴったりですよ」
橋の下を流れるヴルタヴァ川の水面に、街の光がゆらゆらと揺らめいていた。




