表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/54

18. トゥルデルニークが食べたいです

審査の結果がなかなか発表にならないので、エドガーと流音は街に出ることにした。


夕暮れのプラハ旧市街では、石畳の道に温かみのある街灯の光が柔らかくこぼれ始めていた。 歩き始めて間もなく、甘い香りが鼻をくすぐった。


「エドガーさん、あれは何ですか?」

店のウィンドウで、職人が生地をくるくると棒を回しながら焼いていた。


「トゥルデルニークだよ。ここの伝統的なお菓子で、生地を棒に巻いて焼き、シナモンと砂糖をまぶすんだ。中は空洞だから、アイスやチョコを入れることもできる」


「私、そのトゥルデルニークが食べたいです」

流音はお菓子を指さして、足を踏み鳴らした。


「でも、今食べると、夕食前にお腹いっぱいになってしまうよ」

「大丈夫! あのくらいは平気、別腹です」

と彼女は笑顔で肩をすくめた。

「私、こういうのも大好きなの」


エドガーは列に並び、ふたつ買ってきた。焼きたてを齧ると、シナモンと砂糖の香りが口いっぱいに広がり、ふたりは自然に顔を見合わせ微笑んだ。


街を歩きながら流音の目に飛び込んできたのは、絵画のような街並みだった。 石畳は夕暮れの光に染まり、路地の角からはバイオリンの優しい音色が流れてくる。


ふたりは有名な天文時計オルロイのある旧市街広場に着いた。観光客が時計の前に群がっている。

「みんな、何を待っているのですか?」

「この時計は毎正時に仕掛けが動くんだ。もうすぐ六時だから、見ていこう」 「はい。楽しみです」


六時になると、時計の左右の四体の像のうち、骸骨(死神)が鐘を鳴らすと、上の小窓が開き、十二使徒の人形が順番に登場して回転していった。


「どうして聖人が登場する前に、死神が動くの? 縁起が悪くないですか?」

 流音の質問に、エドガーは微笑みながら肩をすくめた。


「あ、ごめんなさい。忘れていました、あなたが吸血鬼だってこと」

「かまいませんよ。死神がいるのは、『死を忘れるな』という警告でしょう。人間は、誰も、死ぬのですから」


「吸血鬼は死なないのですか?」

「死にますよ。ただ、人間よりは長く生きられますが」


「エドガーさんは人間になりたいのですよね。寿命が短くてもいいんですか?」

彼は少し迷ったように流音を見つめ、微笑んだ。

「それは、いいんだ。大切なのは長さじゃないよ」


「じゃ、何ですか」

「中身の問題だろう。ただ長いというのは、つらいものがあると思うよ」

「そうかしら。私は死ぬのはこわいから、一秒でも、長く生きたいです」


広場を取り囲む歴史的な建物は夕焼けに染まり、独特のオレンジ色に輝いている。中央には宗教改革者ヤン・フスの像が威厳を持って立っていた。


広場の角にあるカフカの喫茶店に入った。

「ルネは、カフカを知っていますか?」

「はい。『変身』ですよね」

「ここが、彼の両親がやっていた喫茶店です」


店内には革張りのソファ、古びた木製テーブル、セピア色に色あせた写真。温かいコーヒーの香りが漂い、流音はホッと息をついた。


「ここは普通の人々とユダヤ人街の境にあって、彼はユダヤ人でした。著作はチェコ語ではなく、全部ドイツ語で書かれています」

「カフカはチェコ人が嫌いだったんですか?」

「そうじゃないよ」

とエドガーは少し強めに言った。


「当時、多数派はチェコ語を話していたけれど、文化人は主にドイツ語を話していた。でも、彼はチェコ人から『ドイツ語のユダヤ人』、ドイツ系住民からは『ユダヤ人』と見られ、どちらにも完全には属せない存在だった。それが作品のテーマ、孤独や不安、疎外に深く結びついていると言われている」


流音は顔を赤らめ、視線を下に落とした。

「ごめんなさい…何も知らなくて、浅はかなことばかり言って。馬鹿だと思いましたか?」

「いいや」

エドガーは微笑んで答えた。


「馬鹿だとは思わないよ。ただ、何も知らないとは思ったけど」


流音が恥ずかしさに下を向くと、「冗談だよ」と彼が笑った。


「ぼくは音楽とか、美術のことは、何にも知らない。価値を感じなかったけれど、今は後悔している。まだ間に合うかな」

「もちろんです」


「よかった。ルネも好奇心があるのだから、これから学べばいいのではないかい。今はAIもあるし、その気になれば何でも学べるだろう」

「はい。私、興味だけはあるんです、いろんなことに」


その時、スマホに連絡が入り、審査の結果は明日に延期されたことがわかった。よって、交響楽団との音合わせも一日延びるという。


「揉めているのかしら。日程が変わると、楽団の人も大変なのに。でも、私には関係ないけれど」

「どうして?」


「私は二次まで来られただけでも、奇跡なんですから。ここまでです」

またか、自信のない人だな、とエドガーが苦笑した。


自分が今日、どれだけ過激な演奏をしたのか、流音は気づいていないようだ。


「ああ、そうだわ。この間、委員会の人が連れて行ってくれたカフェ・オルフェウスの壁に、こんな写真が貼ってあったの」

流音がスマホの写真を見せると、そこには、若い吸血鬼の男と、ブロンドのかわいい女子が笑って写っていた。


「これ、私のおじさん」

と流音が指をさした。


「えっ。ルネのおじさんは吸血鬼なのかい?」

「違うわよ。そんなはずがないでしょ」

と流音が笑いこけた。


「おじさんは父の兄で、若い頃はアイドルをやっていたの。この写真はおじさんが映画を撮った時のものだと思う。映画のタイトルはたしか『月下のヴァンパイア・プリンス』だったわ」


「どんな映画?」

「昔のことだから、もちろん私は見ていないけど、うちに雑誌が残っていて、そこにね、『ヨーロッパロケ!』とか『プラハの古城で繰り広げられる禁断の恋』とかって、書いてあったわ」


「ヴァンパイアの恋なのか」

「そう。それも、日本人のヴァンパイア」

くくっと流音が笑った。「あとで、アマゾンで調べてみようかな。あるかもしれない」



窓の外では空の色がさらに濃くなり、プラハの街が夜の帳に包まれ始めた。 ふたりは広場の近くのレストランで食事を済ませ、カレル橋へ向かった。


橋の両側に立つ聖人の彫像が闇に浮かび上がり、橋の上からはライトアップされたプラハ城が壮大に見えている。


「うちに来てみたいですか」

エドガーが思い切って尋ねた。

「いいんですか。もちろんです」


「そのうちにと思っていたけど、今夜、時間があるみたいから」

「え、いつですか?」

「今から」


「えーっ、今からでは遅すぎて、お邪魔ではないですか?」

「我が家は、この後の時刻が最適です」


「ああ、そうでした」

と流音がまた笑った。


「でも、初めてお伺いするのに、こんな格好では失礼ではないですか」

「今夜の衣装は、特に、ぴったりですよ」


橋の下を流れるヴルタヴァ川の水面に、街の光がゆらゆらと揺らめいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ