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16. スクリャービン「ピアノソナタ第九番(黒ミサ)」


流音は舞台中央に置かれたグランドピアノの前で腰を下ろしたまま、演奏を始める気配がなかった。


スポットライトが彼女の肩を照らし、黒い楽器の艶が鈍く光を返している。

だが、彼女の目は空を見ているだけで、まるで観客のことなど忘れている様子である。


観客たちは最初、礼儀正しく沈黙を守っていた。

だが一分、二分と経つにつれ、その沈黙が異様に長く感じられ始め、ざわめきが広がっていった。


誰かが小さく咳払いをし、別の誰かがプログラムを見直した。


審査員のひとりは眉をひそめ、ペンを握り直したが、舞台上の流音は、まるでそのすべてを遮断した世界にいるかのように動かない。


彼女の目は焦点が定まらず、まるでこの場にいないかのような表情を浮かべている。

その静けさが、単なる準備の時間ではないことは明らかだった。


その沈黙は、何かが始まる前の、深く、重く、不穏なものだった。


舞台袖ではスタッフが不安げにささやき合い、観客の間では「何かトラブルが起きたのか」、「演奏中止か」といった憶測が飛び交った。


けれど、誰も声を出すことはできなかった。


流音の周囲には、見えない結界のようなものが張り巡らされているかのようで、その沈黙を破ることは、禁忌に触れるような恐れを感じさせた。


その時、唐突に流音の指が鍵盤を鳴らした。


その瞬間、空気が震えた。


ざわめきは凍りつき、会場全体が彼女の音に支配された。

演奏というより、儀式の始まりのようだった。


最初の音は、地の底から響くような重く不吉な低音で、まるで古代の扉が軋みながら開くようだった。


その音に続いて、囁くような旋律が現れ、言葉にならない呪文のように聴く者の心の奥底に響いてくる。


音はゆっくりと、しかし強引に、聴く者を闇の深淵へと誘っていった。


不協和音が絡み合い、半音階の波がうねりながら押し寄せ、音楽は冷たい霧となって、床下から吹き上がるように会場を包み込んだ。


流音の指は狂気に取り憑かれたように鍵盤の上を疾走し、右手と左手が交錯しながら音の渦を巻き起こした。

それは聴衆の心を掴み、かき乱し、おそろしく揺さぶった。


静かな部分では、音は夜の森をさまよっているように不気味で、もう明るいところへ帰りたいのに帰れない。

誰もが息を潜め、音の行く方に従うしかなかった。


突然、音が爆発した。


雷鳴のような和音が連打され、嵐が吹き荒れる。


流音の身体は音に憑かれたように揺れ、鍵盤に打ちつける指は、まるで激怒した司祭のように見えた。


会場の空気は震え、観客は椅子に縫い付けられたかのように動けない。

審査員のひとりは冷静に筆を走らせようとしたが、音の一撃ごとに心臓を突き上げられ、ペン先が震えた。


ある観客は両手で口を覆いながら心の中で呟いた。

「これは音楽なのか、それとも呪いなのか」


だが、誰一人として目を逸らすことはできなかった。


終盤、旋律は炎と闇の儀式そのものとなり、異界の空気が会場を支配した。


流音の身体はしなり、最後の和音を叩きつけた瞬間、空気が断ち切られ、世界が一瞬にして止まり、静寂が訪れた。


終わった。


演奏は約九分だったが、その時間は聴く者にとって、短いような、また永遠にも似たほど長い時間にも感じられた。


やがて拍手が起きた。

それは歓喜ではなく、陶酔と戦慄が入り混じった異様な拍手だった。


一番先に立ち上がって盛んに拍手したのは、ハイドたち吸血鬼の一団だった。


エドガーは舞台裏へと駆け、袖にたどり着いた。


流音は演奏を終えても鍵盤に指を置いたまま動かなかったが、楽譜をめくるページターナーに促されて立ち上がり、よろよろと歩いてカーテンの横まで行った。


そこで失神してしまったのだが、彼女が床に倒れる寸前に、エドガーが抱きかかえた。


「ぼくは医者です。控室はどこですか」


エドガーに抱きかかえられて控室に運ばれた流音は、ソファに寝かされた。

彼は冷たい水を飲ませた後、片手で彼女の頭を支えながら、何度も囁いた。


「ルネ、戻っておいで」



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