15. 第二次予選
次の日、エドガーはスマホの着信音に耳を澄ませながら、壊れてしまった庭の噴水の修理に取りかかっていた。
その日も一日中、流音からの連絡はなかった。きっと練習室にこもり、集中しているのだろう、彼はそう思おうとした。
二次予選は二日にわたって行われ、流音は二日目の午後に出演する予定だった。 エドガーはその時刻に合わせて、プラハの町へ飛んだ。
ホールの前には張り紙が掲げられ、出場者の急な申し出により曲目が変更になったことが告げられていた。
変更を願い出たのは流音だった。
本来なら「ショパンのワルツ」を演奏するはずだったのに、急きょ差し替えを願い出たのだった。
なぜ?
加賀マギーと同じ曲になるのを避けたのだろうか。一次を通過することすら奇跡だと口にしていた彼女が、勝負に出たのだろうか。
彼女にやる気が出てきたのかもしれない。
そう思うと、エドガーは胸の奥にうれしさを覚えた。
だが次の瞬間、張り紙に記された文字に息をのんだ。
スクリャービン「ピアノソナタ第九番(黒ミサ)」と書かれていた。
うそだろう。
彼女がこの曲を選ぶはずがない。このソナタを知っていたことすら驚きだった。
この曲は吸血鬼社会では名の知れた作品である。 ロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービン(1872–1915)が1913年に書いたこのソナタは、暗く、病的なまでに妖しい。
作曲者自身が「この曲を書くにあたって、私は深く悪魔に関わった。そこには真の悪がある」と語ったことでも知られる。音楽は聴く者を恍惚と恐怖の渦へと引きずり込み、あらがうことを許さない。
なぜ、流音がこれを選んだのか。
もし吸血鬼の自分を喜ばせようとしてのことなら、やめてほしい。
彼女には似合わない。
彼女にはショパンの清らかな音がふさわしいのだ。
エドガーは重い足取りで、二階のロビーへ上がった。
赤いじゅうたんの広間には開演を待つ人々のざわめきが充満している。天井から吊り下げられたシャンデリアが白く輝き、窓からは午後の光が斜めに差し込み、埃の粒がきらめいていた。
そのとき、背後から声がした。
「おい、エドガーではないか」
振り返ると、小学校時代の同級生ギルガルド・ハイドが歩み寄ってきた。
「エドガー、久しぶりだな。おまえは外国に行ったと聞いていたが、戻ってきたのか。人間社会はどうだ、いじめられているのか? 会って、いろいろ話したい」
「今は、時間がないんだ」
「そうか。ヴァルナスも、リュシフルも、ノクスも来るぞ」
ギルガルドは懐かしい仲間の名を並べた。ギルガルドは法医解剖医で、ヴァルナス臨床検査技師、 リュシフルはマインツで遺伝子系譜学の研究者で、ノクスはスイス・バーゼルの研究所で、血液凝固因子や抗体医薬品の開発をしている。
エドガーは中学校からイギリスに渡ったが、彼らは王立学校で高校を終え、その後は王立財団の支援で大学を卒業、血液関係の仕事についてる。
「リュシフルとノクスには、聞きたいことがあるけど。どうしたんだ、みんな、そろって」
「黒ミサが演奏されるというニュースが流れたからな、あちこちから、飛んできた。席は満員らしいから、急いだほうがいい」
「曲の変更を、知っていたのか」
「ああ。練習している時から、我々のSNSで拡散して、みんな、知っている。すごいことになりそうだ」
すごいことって、何なのだ。
だから、二次予選なのに、満員なのか?
吸血鬼仲間が、大勢、来ているのか?
扉を押して中へ消えていくギルガルドの背中を見送りながら、エドガーは腕を組み、眉をひそめた。 流音の選曲が、吸血鬼たちを呼び寄せているというのか。
エドガーが会場に入ると、まさしくハイドの言葉どおりだった。 席はすでに埋まり、立ち見まで出ている。熱気と期待、そして正体の知れぬ不安がないまぜになり、空気そのものがざわめいていた。
「ここだ」
席が一つ空いていると、ハイドが手を振ってくれたが、エドガーは首を振り、後方の壁際に立った。
流音の演奏は、ここから、ひとりで聴きたい。
やがて、いよいよ流音の出番が告げられた。
たった二週間会わなかっただけなのに、その姿を見られると思うと胸が熱くなった。
しかし次の瞬間、その感情は氷のように凍りついた。
照明が落ち、舞台に現れたのは黒いドレスをまとった女性だった。顔を覆うほどの長い髪が肩に垂れ、青白く光を宿す頬。
あれが、流音なのか。
人一倍視力のよいエドガーには、彼女の憑かれたような表情、そして瞳の奥に宿る青白い光がはっきりと見えた。 その冷ややかなまなざしは、吸血鬼が呪いの儀式で見せるものと同じだった。
まさか、これもパフォーマンスなのだろうか?
流音に、そんなことができるのか。
流音は礼もせず、観客を睨みつけるようにして、ピアノの前に腰を下ろした。そして、白い手を鍵盤に置き、深く頭を垂れたまま、微動だにしない。




