14. フィルモア家
エドガー・フィルモアはプラハの郊外、森の奥深くにある実家の敷地に、ひっそりと降り立った。
フィルモア家の屋敷は、獣道のように細く頼りない道を抜けた先に、重々しく沈黙の中にたたずんでいる。
鬱蒼と茂る木々が光を遮り、昼なお暗いその森は、まるで外から切り離された異界のような空気をまとっていた。
地図にも記されていないこの一帯は、地元の人々の間で「近づいてはならぬ森」として恐れられている。
正面の門は黒鉄製で、錆びついた紋章に蔦が絡み、かつての威光をかろうじて留めていた。
門をくぐると、荒れ果てた庭園が広がる。黒ずんだ大理石の噴水は水を失い、ひび割れたまま沈黙し、朽ちたバラの茂みと、月光を拒むように天へ伸びる針葉樹だけがそこに残されていた。
玄関の扉は分厚い木製で、鉄の取っ手は錆びついている。
エドガーが扉を押し開けると、埃のにおいが鼻を突いた。灯りをともすと、天井の隅々には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされていた。
彼はすぐにあかりを落とし、台所へ向かうと、持参したかばんから赤い袋を取り出し、冷蔵庫に詰め込んだ。そしてもうひとつのかばんを手に、裏口へと抜けた。
屋敷の裏手には、苔むした古い墓地が広がっていた。傾いた墓石が並ぶその場所で、エドガーが声を上げた。
「ただいま。エドガーが帰ってきましたよ。さあ、目を覚ましてください」
そう言いながらかばんを開け、哺乳瓶を大きくしたような容器を取り出した。
中には赤黒い液体、つまり血液が満たされていた。今週は輸血手術が多く、彼は十分な量を確保できた。
その匂いに誘われるように、墓石がぐらりと揺れ、棺おけの蓋が軋みを上げて開き、次々と人影が姿を現した。彼の家族は両親とふたりの弟、使用人がふたりである。
「お兄さん」
一番先に起き上がって駆けてく、抱きついたのは、末弟のデリオンである。
「デリオン、いい子でいたかい」
「うん。ようやく来てくれたんだね。ぼくが、どれだけ待っていたか、わかる?」
「わかるよ」
エドガーはデリオンの髪を撫でて、キスをした。
デリオンはまだ十二歳だが、そのシルバー色の美しい髪は長く、瞳は青く、澄んだ湖のようだ。
「ぼく、もう眠るの、飽きちゃったよ」
「もう少しの辛抱だから」
エドガーは順に血液のはいった瓶を手渡すと、彼らは喉の渇きを癒やすように、ごくごくと飲み干した。
「足りない人は言ってください。あと半分は、冷蔵庫に入っていますから」
父のレタナトスと、母のセラフィナも、それぞれの棺おけから出てきた。
すぐ下の弟のモルティマは、エドガーに代わって一族の跡を継いでくれることになっている。
屋敷を取り仕切るのは、老練な執事・クロウリーと、家事を担うお手伝いさん・マルヴェナである。
「エドガーは元気だったのか。急に、どうしたんだ」
と父のレタナトスは足が悪いので、クロウリーが棺おけから出るのを手伝った。
「プラハに用事がありまして。こちらは、どうですか。デリオンの様子は?」
「今のところは、大丈夫だ」
「よかった。近く、紹介したい人を連れてくる予定なので」
とエドガーは執事とお手伝いさんのほうを向いた。
「庭と屋敷をきれいにしておいてください。噴水は枯れているし、天井には蜘蛛の巣がいっぱいです」
「お坊ちゃま、蜘蛛の巣は美しいではありませんか」
とマルヴェナが言った。
「だめですよ。全部、取り除いてください」
「兄さん、連れてくるのは、女の人かい?」
と次男のモルティマが聞いた。
「うん。そうなんだ」
「まさか、人間?」
「そうだよ」
「兄さんは昔から人間が好きだったからね。それはよかったじゃないか」
「その女性のお客様って、どなた?」
母のセラフィナがゆっくりとした口調で尋ねた。
「ピアニストです」
「まぁ、ピアニスト!」
セラフィナがスカートの埃を払い、髪を整えた。
「じゃ、レクイエムを弾いてもらおうよ」
と弟のモルティマが喜んだ。
「レクイエムじゃなくて、ショパンのワルツとかを弾いてもらおう。とても上手なんだから」
「ショパンはだめだ。ああいう人間っぽいものは」
と父親が渋い声を出した。
「彼女は人間ですよ」
「本当に、あなたったら、いつもそうなんですから」
とセラフィナが夫を睨んだ。「そのお嬢さんのお名前は?」
「ルネ。日本人なんだ」
「日本人。あら、まぁ」
とたんに、セラフィナの瞳が輝いた。
「お兄さん、日本には、おいしい肉があると聞いたけど」
デリオンの青い目が輝いている。
「変なことを考えたら、だめだからな」
とエドガーがデリオンの肩を抱いた。
「違うよ、お兄さん。ぼくは和牛のことを言ったんだよ」
「エドガー、ルネさんはおまえが吸血鬼だと知っているのか?」
と父が尋ねた。
「はい。ぼくが人間になりたがっていることも、知っています」
「そのお嬢さんは、あなたと結婚してくれるって言ったの?」
とセラフィナ。
「お母さん、何を言っているのですか。ルネはぼくが手術をした患者で、まだ知り合ってから数日しかたっていない。でも、たまたまプラハに来ているから、案内しようと思っただけだよ」
「でも、ミス・ルネでなくて、もうルネって言ってるよ」
とデリオンがくすくす笑った。
「好きになるのと時間とは関係ないけれど、まぁ、わかりました。では皆さま、屋敷の中に入って、お片付けを始めてくださいな。エドガーの初めての女友人ですからね、大切にもてなしてあげましょう」
「初めてじゃないよ。ベルダがいるじゃないか」
とデリオン。
「ベルダは友達というより、家族よ」
セラフィナはお手伝いのマルヴェナに手を引かれて、屋敷へ向かった。
「ああ、鏡を見るのが怖いわ。半年ぶりですもの。私、老けていませんように」




