表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/54

12. プラハ

プラハのホテル・アストリアに到着した流音は、スーツケースを開ける前に市役所のコンクール事務所へ向かい、登録を済ませてスケジュール表を受け取った。


それから、 一度ホテルに戻り、顔を洗うと、今度はコンクール会場であるルドルフィヌムへ向かうことにした。


六時を過ぎていたが、空はまだ明るい。

日没のオレンジ色が石畳に反射し、街全体を柔らかく染めていた。


外の空気には、カフェからの香ばしいコーヒーの香りが漂い、人々の笑い声や靴音も混ざり合っていた。


流音は軽く身を揺らしながら、石畳の道を歩いていった。

夕日に照らされた白い市役所は赤みを帯び、まるで街の守護者のように堂々と立っていた。


一週間後に始まるコンクール。二週間で優勝者が決まる。

優勝するのはきっとあの十三歳の加賀マギーだろう。

自分はここまで。とてもチャンスがあるとは思えない。


三週間後の自分はどうなっているのだろうか。広場を見渡しながら、流音はそんなことを考えた。


これまでの人生でいろんなことがあったけれど、ある日突然、人生が変わった、ということは一度もなかったし、これからも、ないだろう。


シンデレラがかぼちゃの馬車から降りたみたいに、すべて、元に戻る。

シンデレラがガラスの靴を持って、王子が探しに来てくれたけど。

あの国では、あの靴に合う人はひとりだったけれど、この世界では、数えきれない数の女子がいる。


でも、元のところに戻れるというのは、運のよいことなのだろう。今度だって、腕が取れてしまうかもしれなかった。それをエドガーさんが助けてくれた。


「エドガーさん」

小さな声で呼んでみた。


テラスのカフェでは、老夫婦がワインを傾け、子供たちの笑い声が石畳に跳ね返っている。流音は立ち止まり、いつか自分も誰かと知り合い、あんな穏やかな時間を過ごせるのだろうか。そういうことは、自分には起きない気がする。


広場には色とりどりの建物が並び、観光客が天文時計を囲んでカメラを構えている。夕日が建物に反射し、時間がゆっくり流れているように感じられた。 ヴァーツラフ広場に足を踏み入れると、ナショナル・ミュージアムの壮麗な姿が視界に飛び込んできた。


人々のざわめきをかき分けながら進むと、中央に立つ聖ヴァーツラフ像が夕日に照らされて輝いている。


「聖ヴァーツラフとは誰ですか?」

流音はAIに尋ねてみた。


彼は十世紀のボヘミアを治めた大公で、チェコの守護聖人。信仰に厚く、公正な統治を行ったが、弟に裏切られて命を落とした。その死は殉教とされ、今も正義と自由の象徴として人々に敬われているという。


記事を読み終え、流音はもう一度像を見上げた。


「信念を貫いた人なのね」


彼を知らずに見た時と、知ってから見た時では、像の重みがまるで違う。 そういうことか。プラハをもっと知りたい。「霧の中」を弾くためにも。


流音はヴルタヴァ川沿いに出た。

川面に夕日が映り、カレル橋やプラハ城の輪郭が柔らかく浮かび上がる。しばらく歩いて行くと、コンクール会場のルドルフィヌムの建物が見えてきて、その堂々とした姿に息を呑んだ。


写真で見たことはあるが、本物はまったく違う。

ネオ・ルネサンス様式のファサードは夕暮れに溶け込み、力強く街を見守っている。


ここで一週間後、コンクールが始まる。そう思うと胸が縮こまる。私に、できるかな。


建物の入口、階段、観客席の位置を目に焼き付けながら、流音は自分の演奏を想像する。 途中で、楽譜が飛んでしまって、立ち往生する自分が見えて、汗が出た。


歩きながら、何度もエドガーのことを思い出した。

そろそろ出かけるころかしら。

そして、病院に着いたら、救急患者の治療に集中し、自分のことなど頭の片隅にもなくなるのだろう。


でも、 流音は足を止めて、ちょっとほほ笑んだ。

彼女がヒースロー空港で突然泣き出した時、彼は戸惑いながらも「コンクールに行くから」と約束してくれた。


どうして泣いてしまったのかはわからない。

でも、あの時、大泣きしてよかった。

涙が出てきたのは本当だったけど、我慢して、止めなくてよかった。われながら、よくやった。

また会える。


でも、口先だけ約束かもしれない。


旧市街広場へ戻る途中、小さな犬が足元に寄ってきて、かわいい瞳で顔を見上げた。


「普通に考えて」

流音は上を向いて、目を瞬いた。


わざわざプラハまで会いに来てくれるということは、少しは思ってくれているということよね、故郷がプラハだとしても。


思わず笑みがこぼれて、小さな子犬を撫でた。

うん。すごく元気が出てきた気がする。


ホテルに戻った流音は椅子に座り、じっくりとスケジュールを読んで、カレンダーに書きこんだ。


コンテストの期間は休みを含めて約二週間。

予備予選を通過した三十五人が一次予選に挑む。課題曲はヤナーチェクの「霧の中」。 演奏には三日かかり、結果は翌日に発表される。


その日は休憩日で、 二次予選は進めるのは十人。

二次では、一日目に七人、二日目に三人がそれぞれ得意の曲を演奏し、結果はすぐに発表される。


休憩日を挟み、三人がファイナルへ。

ファイナルはオーケストラとの協演で、曲はドヴォルザークの「ピアノ協奏曲」である。


ファイナルの審査には一日かかり、その翌日には結果発表と夜には入賞者記念コンサートが開催される予定で、記念コンサートのチケットはすでに売り出されている。


彼に「無事に着きました」 とテキストを送ると、すぐに電話がかかってきた。

「プラハはどう?」

「ルドルフィヌムまで歩いてみたんです。とても気に入りました。でも、今夜のプラハには霧がかかっていません。夜になれば霧に包まれるかと思ったんですけど」


「そうだね。プラハには霧が出ないなぁ。ロンドンみたいには」

エドガーはそう言いながら、森の奥にある実家のことを思い出していた。あのあたりはいつも濃霧に包まれている。


流音は譜面の上で指を動かしながら考えた。

霧というのは、ヤナーチェクの孤独や将来への不安を象徴しているのだろう。


ニューヨークに行ったばかりの頃の自分。先が見えず、心細かった日々。 それをヤナーチェクの曲に重ねれば、なんとか表現できるのではないだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ