11 ロンドンの朝
そのロンドンの朝、流音は棺おけの中で遅くまで眠り、ゆっくりと起きた。
目覚めたときには、すぐにはどこにいるのかわからなかったが、起き上がると気分がこれまでになく爽快で、なんだか少し強くなった気がした。
でも、今日ここを去ると思うと、心にはちりちりと騒ぐものがある。 窓の外には灰色の曇天が広がっている。薄い雲が垂れ込めたこの七月の空は、流音の胸の風景と重なっているようだ。
「さあ、支度をしてください。ブレックファーストを食べに行きましょう」というエドガーの声が聞こえた。
「はいっ」
近くのレストランへ向かう道すがら、流音は何度もエドガーの横顔を盗み見た。彼の歩幅に合わせようとするたび、胸に緊張が走った。
あと数時間で、この並んで歩く時間が終わる。そう思うと、やりきれない。 流音は今日、ロンドンを離れる。
ヒースロー空港からブリティッシュ・エアウェイズの午後一時過ぎの便でプラハへ向かうのだ。空の旅は二時間ほどで、ヴァーツラフ・ハヴェル空港には午後四時過ぎの到着予定。その時刻ならホテルへのチェックインもすぐにできる。今はウェブがあるから、予約も手際よく済ませられる。
けれど、心のどこかに収まりきらないものが残っている。 流音は別れのたびに空しい感情にとらわれるが、今回はそれとは違う。どうしようもなく悲しくてならない。コンクールに行くのが、こわいからなのかしら。
彼が選んだレストランの店内は薄暗く、客はまばらだった。
壁に掛かったイギリスの暗い風景画と、低く流れる退廃的なジャズ。 席に着くと、エドガーはスモークサーモンのベーグルとブラックコーヒーを、流音はアボカドトーストとカモミールティーを頼んだ。
「私が何を考えていたか、わかりますか」
流音が平静を装いながら問いかけた。
「何だろうか。コンクールのこと?」
「違いますよ。プラハに行かなくてよい方法です」
流音は笑みを作ろうとしたが、唇が固くなった。
「緊張しているんだね。コンクールに出られるだけでもすごいことだよ。できるかぎり楽しめばいい」
「そんなことではありません」
流音が怒ったように繰り返した。「そんなことではないのよ」
たった一日しか一緒にいなかったエドガーと、これで別れてしまうのかと思うと、寂しくて仕方がないのだ。
「エドガーさん、あなたは寂しくないですか」
「寂しい?……でも、生きるとはそんなものでしょう。深く考えたことがないです。考えなくてよいことは、考えません」
しかし、エドガーは、なぜか朝方まで寝つけず、その原因を考えていたのだった。悪い血を飲んだのだろうか、と。
「人生は出会いと別れの繰り返しですものね。これも、そのひとつ、あなたにとっては。私は、吸血鬼になりたいです。そんなふうに、あっさり割り切れるのなら」
「あっさり割り切っているわけではないですが、悩んでも何が変わるわけではないし、他に何ができるでしょうか」
流音がスマホで何か調べ始めた。
「どうかしましたか」
「私、AIに聞いています。吸血鬼は恋をするのか、しないのか」
「なんて書いてありますか」
「ああっ」 と流音が叫んだ。「ほら、恋をするって、書いてありますよ。永遠の夜を生きる吸血鬼にとって、恋は唯一の救いであるって」
「どこですか」
「ほら。ここ。それに、吸血鬼が人間の少女に恋をする人気ドラマがあります。吸血鬼の人間に対する葛藤がテーマの中心になっていると書いてあります」
「本当ですね。でも、それ、ドラマですよね」
「ドラマって、本当のことが多いじゃないですか。吸血鬼にもそれぞれ性格があり、全員がそういうデリケートな感情を持っていないわけではないみたいですが」
「ぼくはそういう感情を持っていませんかね」
「あまり」 流音が大げさに首をかしげて見せた。
「ちょっと待て。ぼくのチャットAIに聞いてみますから」
流音が隣に来て、「どれどれ」とのぞき込み、長い髪がエドガーの手に触れた。
「感情は無用産物。害はあっても、得はない」
「それ、違いますよね。AIが間違った情報を流すことはよくあることですから」
「そうだね。そうかもしれない」
「エドガーさん、私のこと、どう思いますか。何にも感じませんか」
「全く感じないわけではないですが、言葉にできない。ぼくはこういうことには慣れていないから」
エドガーはウェイターに手を上げた。
「さあ、急ぎましょう。空港には車で行かなくてはならないので、時間がかかりますから」




