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10. ブルームズベリーのアパート

「では、飛びますよ」

エドガーが両手を広げた。


「えっ?」

「ここからアパートまでは飛んで行きます。ぼくは吸血鬼だと言いましたよね」


「はい」

流音は微笑んで彼の両腕の中に入り、 彼は彼女を抱き上げて、空へ舞い上がった。


「すごい。ディズニーランドのアトラクションみたい。いいえ、ディズニーランドよりすごいです」

「さあ、本番はここからですよ」


「私、あのバスで事故に遭った時に死んじゃったんじゃないか思うんです」

「なぜ」

「だって、あれから、夢の中にいるみたいなんです。ここ、現実ですか、異世界ですか」

「異世界って?」


「小説でよくあるじゃないですか。平凡な人が交通事故で死んで、異世界で勇者になる話とか」

「そういう小説は、聞いたことがないです」


「日本ではすごく人気があるんですけど、読んでみたいですか」

「いや、特には。忙しいので」

「そうですよね。言ったこと、忘れてください」


ふたりはまるでシャガールの絵の恋人たちのように、ロンドンの空を飛んだ。


眼下に広がる夜景は、千の星を散りばめた漆黒の絨毯のようだった。


テムズ川は鈍色の光の帯となって闇を横断し、その両岸に連なる街並みは、地上に咲く光の花畑のようだった。 ウェストミンスター宮殿の時計塔は静かに時を刻み、ビッグベンから伸びる光の柱が空へ向かって延びていた。


タワーブリッジのアーチは眩い光の鎖で結ばれ、その上を走る車のヘッドライトは、地上を這う無数の蛍の群れのように見えた。


「なんてすごいの。想像したこともなかったわ。あの黒いのは森ですか? ロンドンって、思ったより緑が多いみたい。今度は昼間に飛んでみたいです」


「だめですよ。昼間は人に見られてしまう。それに、ぼくは昼に弱いです。吸血鬼ですからね」

「あ、そうでした」


ふたりはブルームズベリーのアパートに着いた。

彼の部屋は四階の最上階で、もちろん窓から入るのである。


「ここから入るんですか?」

「そうですよ。下から入るのは面倒くさいですから」

「そうですね」

流音は彼の部屋を見られると思うと、興奮で胸がいっぱいになった。


部屋に入ると、壁一面の本棚には古めかしい革装丁の書物がぎっしりと並んでいた。

「本がお好きなんですね」


中央には大きなテーブルがあり、その上には古風な地球儀や望遠鏡、不思議な石、陶器などが置かれ、まるで小さな博物館のようだった。


流音はあちこち見ながら部屋を歩き回った。

「なんて広いお部屋。私のアパートの十倍です」

彼女は笑顔で振り返った。


「十三歳でプラハからロンドンに来られた時、寂しくなかったですか? 私がニューヨークに行ったのは十七歳でしたけど、最初は寂しくて毎日泣いていました」

「昔のことなので、忘れました」

エドガーはそう答えたが、あの日々を忘れたはずがなかった。


「ところで、ヤナーチェクの『霧の中』の話が途中でしたが」

「はい。ちょっと待ってください」


彼が話し始めると、流音はノートを取り出して熱心にメモを取った。

「ありがとうございます。もし私が第一次選考を通過できたら、全部先生のおかげです」


「先生はやめてください」

「じゃあ、何と呼べばいいでしょうか?」


「エドガーで。エドガー、ルネでいきましょう」

「エドガー……なんて、恥ずかしすぎます」

「やってみてください。そういうことは慣れますから。さて、コンクールまではあと一週間ですよ。一刻も早くプラハに行ったほうがいい。今夜はぐっすり寝て、明日出発してください」


「そんなに早く……先生、じゃなくて、エドガーさんとお別れですか?」

「今はコンクールのことが一番大事でしょう」

「そうですけれど……プラハに行ったら、エドガーさんとはもう二度と会えないのですか?」


「人生は出会いと別れの繰り返しです。これもそのひとつ。どうということはありませんよ」

「エドガーさんは冷たいですね」

「ぼくは人間になる努力はしていますが、そういうところが人間と違うのかもしれません」


彼は奥へ行って、タオルやシーツ、毛布などを持ってきた。

「ルネさんのスーツケースは朝までには届きますから、今夜はこれを着てください」

「はい」


「浴室はあちら。そこのソファベッドで寝てください」

「はい」

流音はシャツを抱いて浴室に入り、着替えて戻ってきた。後ろに結んでいた長い髪を肩にかけて垂らした姿は、どこか違って見えた。


「あらっ」

彼女がくるくる回った。


「エドガーさんは、どこで寝るんですか?」

この部屋にはベッドらしいものが見当たらない。


「ぼくにはぼくの寝所がありますから、心配しなくていいです」

「それ、どこですか?」

「どこでもいいでしょう」

「見たいです」


仕方がないな、という顔をして、彼は奥の部屋に案内した。

「ここにも、こんな広いスペースがあるんですか?」

「ここが研究室です」


その端の暗がりに、白い棺桶が置いてあった。

「寝るのは、ここです」 彼は蓋を開けてみせた。「やはり、ぼくはここが一番安心します」


「すてきですね」

「ええっ」


「これが、すてきですか」

この世には、そんなことを言う人間がいるものなのだ、とエドガーは驚いた。


「私、そこに寝てみてもいいですか?」

「だめですよ。誰が棺桶で寝たいですか」


「だって、エドガーさんが一番落ち着くっておっしゃったじゃないですか。私が入ったら、だめですか?」

「だめではないですけど……」


「では、失礼します」

流音はうれしそうに棺桶の中に入り、胸の上で手を合わせた。


「本当に落ち着きます。なにか、死んだ気持ちです。私、ここで寝ていいですか? エドガーさんがソファベッドで寝てください」


彼女こそ、異世界から来た人みたいじゃないか、と彼は苦笑した。

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