第80話「へーほーかんせー」
その日の夜。
央都の宿にあるジルの部屋にて、軽めの『授業』が行われていた。
授業と言いつつも、内容としては簡単な四則演算のプリントを解かせるというものだ。
迫り来る大地震や謎の結界の調査で張り詰めた空気を、少しでも和ませるための息抜きでもあった。
「いや、算数じゃん! これくらいならあたしでも分かるよ!」
カノンは配られたプリントをスラスラと埋めながら、得意げに笑った。
「うーん……確かに、法則と解き方さえ覚えちゃえば案外イケるね」
ポラリスもペンを回しながら、パズルを解くようにプリントに向かっている。
「……」
一方で、スズナは配られたプリントを前に、耳をぺたんと伏せてうんうんと唸っていた。
どうやら、彼女には少し難易度が高いらしい。
そこにすかさず、アークが「スズナさん、ここはですね……」と優しく横に座り、補助に回った。
「カノン」
「うん?」
「解くの早いな。もう下の方か」
「だから簡単だってば。妹のワークの方がまだ……いや、なんでもない!」
カノンは慌てて口を噤んだ。
ジルはその不自然な誤魔化しをあえて追及せず、彼女のプリントを覗き込んだ。
「四則演算は完璧か……」
ジルはスキルのインターフェースを空中に呼び出し、青白い光の文字で新たな式を表示させた。
『 2x + 1 = -7 』
「次数があるから流石に……」
「マイナス4じゃん」
「カノン。もしかしてお前……」
ジルは目を細めた。
彼女が一切の魔法を使用出来ない点など、以前から思う節はあったのだ。
「あ、あたしは文系だし! たまたま知ってただけ!」
カノンがぶんぶんと首を振る。
ここまでくると、ジルも少し彼女を揶揄ってみたくなった。
無言でインターフェースのキーを叩く。
『 5x(x + 4) + 2x = 22x + 15 』
「どうだ?」
「うーん……」
カノンが腕を組んで式を睨む。
他の三人は、空中に浮かんだアルファベットと数字の羅列を見てポカンとした様子だ。
別に、これが解ければ理系というわけではない。
ジルとて、二次方程式など彼がまだ四つだった頃に習得した基礎中の基礎だ。
「紙の裏、使っていい?」
「ああ」
カノンはプリントを裏返し、ペンを走らせる。
カッコを展開し、数字を移項させ、同類項をまとめ、符号を整理していく。
そして——。
カノンは自慢げに、バーン! とプリントの裏をジルに見せつけた。
「xは……√3でしょ!」
よく分からないが解けたらしい、ということで、ポラリスとスズナは「おー」と感心したようにパチパチと拍手をした。
アークも一緒に拍手をしているが、ジルから問題を出され、それをスラスラと解いてみせたカノンに対して、どこか少しだけ悔しそうな、羨ましそうな視線を向けている。
「……惜しいな」
「なんで!? 計算ミスしてないよ!」
「何か忘れてないか?」
カノンは、自身の書いた式をもう一度じっくりと見直す。
「……うわっ! プラマイが無い! サイアク……」
頭を抱えて机に突っ伏すカノンを見て、ジルは小さく息を吐いた。
「だがまあ……」
ジルは手を伸ばし、突っ伏しているカノンの赤い髪をポンポンと撫でた。
「よくやった」
「……えへへ」
カノンはパッと顔を上げ、すかさずジルの顔を指差した。
「浮気はダメだよ? ちゃんと本命の子がいるんだから!」
きっと、今やグロリアにいるだろうエマのことだろう。
ジルは呆れたように手を引っ込めた。
—————
授業はお開きとなり、それぞれが自身の泊まっている部屋へと戻っていった。
自室の扉を閉めたカノンは、窓辺に歩み寄った。
「そっか。もう、二百年も経つんだ」
外で妖しく輝く魔導国のネオンの灯りをじっと見つめながら、彼女は後ろで手を組んだ。
赤い髪と、黒のスカートが、夜風にふっと揺れる。
ズズ……。ビーッ。ヴヴ。
「……最近、こっちも増えてきたし」
電子音に近い、酷い異音が鳴った。
それは部屋のどこかの機械からではない。
カノン自身の、腹が有った箇所から鳴っていた。
独りごちる彼女の声すらも、時折、訳の分からない濁ったようなノイズが混じる。
まるで、処理落ちしかけたゲームのバグのように。
「あたし、もうダメなのかな」
窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、彼女はそっと目を伏せる。
(今日は懐かしくて、嬉しかった)
あの平穏で、温かい数字のやり取り。
見るのすら拒みたくなった、あの記号たち。
かつて自分が存在していた「あちら側」の世界の記憶。
彼女が懸命に保ち続けてきた、整えたはずの存在の等式が、確かに崩れ出そうとしていた。




