第79話「重たい身体」
朝。
目が覚めると、ジルは自分の身体が鉛のように重たいことに気づいた。
泥のような疲労感というわけでもない。
むしろ、意識の表層は冷徹なほどに冴え渡っている。
ただ、肉体だけが自分の意思から数ミリ秒ほど遅れて動くような、奇妙な乖離感があった。
「……デミトアの奴に見られたら、背の曲がり具合とか重心のズレとか、細かく測られそうだな」
独りごちてベッドから身を起こす。
昨夜聞いたあの心地よいラッパの音が、今も耳の奥に微かな残響としてこびりついていた。
「本当にやるんですか? ポラリス」
「やってみる価値はあるでしょ。ジルがダメだったからって、僕らまで諦める必要はないしね」
朝日が差し込む古代ラボの入り口。
ポラリスはアークを伴い、再びあの拒絶の結界へと足を踏み入れていた。
ポラリスは細い指先を翳し、慎重に、壊れ物を扱うような手つきで扉のノブへと近づけていく。
結界の膜を、すり抜けた。
手応えがあった――かと思いきや。
パァンッ!
時間差で発生した強烈な斥力に、ポラリスの身体が後方へ弾き飛ばされる。
「……おっと。なかなかに手厳しいね。はい。次アーク」
「私ですか? まぁ……少しだけなら」
アークは困ったように微笑み、滑らかな白い肌の指先を結界に触れさせた。
パチッ!
鋭い放電の音と共に、アークの腕がスライム状に解け、一部が霧散して吹き飛んだ。
「あ……」
「痛くないからいいですけど、何故、結界魔法に雷魔法が重ねてあるんでしょう?」
アークは吹き飛んだ腕を即座に再構成しながら首を傾げた。
「さあね。悪趣味な設計者がいたんだろう。……まあ、僕らでも解けなかったし、もういいや。帰ろうか」
ポラリスはあっさりと踵を返した。深追いはしない。それが彼の生存戦略なのだろう。
「あちゃー。スズナちゃん。毛繕いは大事だからね? 放置してると毛玉になっちゃうよ」
「……はい」
宿の食堂。
カノンは自前の櫛を取り出し、スズナの大きな尻尾を優しい手つきで整え始めていた。
最初は警戒していたスズナも、カノンの手慣れたブラッシングに、いつの間にか耳を伏せて大人しくなっている。
「スズナちゃんは、どうしてジルのことが嫌いなの?」
「狼は……嫌い」
「種族的なやつかぁ。じゃあ、誕生日とかいつ?」
「忘れた。四月くらいかも」
「好きな食べ物は?」
「ぜんぶ」
カノンは苦笑しながら、スズナのふわふわした毛を梳かしていく。
「夢とか目標ってある? こうなりたい、とか」
「番を見つける」
「番って……」
「殿方」
「マジかー……意外と乙女なんだね」
カノンは目を丸くした。
無愛想な少女の口から出た、あまりに生物的な、けれど純粋な望み。
「ジルに付いてくることになったのは、どう思ってる?」
「別に。ご飯食べれるなら、それでいい」
「現金だねぇ。あ、そうだ、痩せる秘訣とかある? スズナちゃん、あんなに食べてるのにスタイルいいよね」
「食べてたら痩せる」
「それが出来ないから全女子が困ってます! 主にあたし!」
賑やかなカノンの声に、スズナの尻尾が微かに揺れた。
「趣味とか教えてよ」
「覚えてない」
「本当に? 好きなこととかさ、なんでもいいから」
「……お祭りは。好き、だったかも」
「いつも何食べるの?」
「覚えてない。けど、カノンに貰ったあれ、美味しかった」
「フランクフルトね! また、どこかでやるといいね。お祭り」
「……うん」
スズナは小さく、けれど確かに頷いた。
窓の外では、魔導国の巨大な歯車が規則正しく回転している。
大地震まで、あと28日。




