第77話「ぱらっぱらっぱー・ぱっぱらぱっぱ」
数時間後、再調査の手続きを終えたノアが、苦渋の表情でジルの元へ戻ってきた。
「ダメでした。先遣の探索家が侵入を試みたところ、入り口に謎の結界が張られていたらしく……。昨日までは、そんなもの存在しなかったはずなのですが」
「スキルや魔法で無理やり壊せないのか?」
「試してみますか?」
「ああ。女神の頼みとあれば、放置するわけにもいかない」
二人は再び隆起した地帯、古代ラボの入り口へと向かった。
確かに、扉の周囲には肉眼では辛うじて見える程度の、半透明な膜が空間を遮断するように張られている。
「スキル『数学者』、インテグラルサーベル」
ジルは虚空から積分記号「∫」を具現化し、鋭利な刃を持つサーベルとして手にした。
それを無造作に振り抜き、結界の基点と思わしき箇所を殴りつける。
ズズ……パチッ。
静電気のような小さな火花と音が鳴っただけで、結界に亀裂が入る様子は微塵もなかった。
「魔法も試してみましょうか? 私が最大出力で撃ってもいいですが……」
「それでもビクともしなそうだ。……実験を兼ねて、俺がやる」
ジルは手にしたインテグラルサーベルから、かつて戦った女帝ハレーから抽出した残留魔力を呼び覚ます。
擬似的に構成された氷郷魔法が、鋭い冷気と共に結界へと叩きつけられた。
だが、結果は同じだった。
空しく火花が散り、同じような「パチッ」という音が空気に溶けるだけ。
「……ダメだな。物理、魔力、概念。どれも座標の干渉を受け付けていない」
「手詰まりですね。この短期間で、これほど強固な術式が組まれるなんて……一体、どのような詠唱を行ったのやら」
「戻るか。これ以上ここにいても時間の無駄だ」
イデアの頼みは、どうやら達成できそうになかった。
ジルの中に、喉の奥に小骨が刺さったような、妙な引っかかりがあった。
だが、それが何なのかは分からないまま、二人は塔へと引き返す。
「すぐに動けば、入れたのかもしれないな。……女神が『時間がない』と言っていたのは、このことか」
「かもしれませんね。完全に沈む前に、何かが『拒絶』を始めたのか……」
執務室に戻ると、ノアが切り替えるように書類を広げた。
「気を取り直して、召喚技術の方に本格的に入りましょうか。ジル君、先ほどの次元圧縮の……」
「……悪い。少し気分が悪いんだ。明日からでもいいか?」
不意に、ジルの視界がぐらりと揺れた。
フラッテーション現象——三次元の軸を無理やりバグらせ、高速反転させた反動だろうか。
あるいは——。
こめかみを突き刺すような激しい頭痛が、ジルの思考を遮断する。
「ジル君? 顔色が……。ええ、今日は休んでください。無理をさせてしまいました」
「……ああ、すまない」
ジルは最短距離の座標を指定して宿まで飛び、転がり込むようにして自分のベッドへ横になった。
「う……」
唸り声を上げ、重い頭を片手で押さえる。
酷い眩暈だ。
ゆっくりと目を閉じ、意識を眠りへと沈めようとする。
だが、どうしてか。
暗闇の中で、遠くからラッパを吹くような音が聞こえてくるのだ。
(……疲れているのかもな。幻聴まで聞こえるとは、俺も焼きが回ったか。いや、焼けてはいないんだが)
ジルは思考を止め、そっと眠りに身を任せた。
そのラッパの音色は、決して不快な騒音ではなかった。
むしろ、深い海の底へ誘うような、ひどく穏やかで、心地よい音色を奏で続けていた。




