第76話「虚空、再び」
『また、貴方ですか』
静寂と漆黒が支配する空間に、透き通るような、けれど明白に呆れの混じった声が響いた。
「……んあ?」
ジルが意識を浮上させると、そこはやはり、スキルが一切使用できない絶対的な無――"虚空"だった。
視界の先には、質素な木の椅子。
そこに、地面に届くほど長い群青色の髪を垂らした女性が座っている。
彼女の細い首元と四肢には、半透明の鎖のようなものが、重荷というよりは回路の一部であるかのように纏わりついていた。
世界の法を司る女神イデア。
ジルは直感的に、それが目の前の存在の本質であると理解していた。
『……あまり、スキルをおかしな使い方しないでいただけますか? 三次元の軸を反転させて低次元へ圧縮するなど、仕様にありません』
「仕様書が甘いだけだ。バグが出るのは設計側の責任だろ」
『なっ……』
「それに、それがそんなに不都合なら、何故《虚数解放》を使った時点で止めなかった。あれこそ実軸から外れる禁じ手だろうが」
『……ぐうの音も出ません。あれは、貴方の演算速度が私の処理を上回っていたからで……』
女神はばつが悪そうに視線を逸らす。
その様子を見て、ジルは眉をひそめた。
「……もしや、アンタって意外とポンコツなのか?」
『……失礼な。これでも世界の演算を一手に引き受けているのですよ! 貴方と同じ『数学者』スキルの所有者が、複雑な計算をするのにスキルを使用することがありますね?』
「デミトアか。……まあ、あいつなら」
『あれを裏で実際に演算して数値を返しているのは、私なんです。膨大なリソースを割いているのですよ』
「……へぇ、そうなんだなー……」
ジルは他人事のように相槌を打つ。
(俺はいつも自前で暗算するから、その機能、一度も使ったことないんだが……。そんな無駄なリソースの食い方をしているとはな)
『今、ものすごく失礼なこと考えましたね』
「失礼なことではない。事実を述べただけだ。暗算で済むことにわざわざ外注を出す趣味はない」
『口にしたら余計に酷くなるの何なんですか、貴方は……』
イデアは深いため息をつき、長い髪を揺らした。
「で、いつまで喋らすつもりなんだ? 手を動かさないと一ヶ月後の地震に間に合わん」
『以前、貴方にお願いをした件、覚えていますか?』
「……魔力を0から増やすな、だったか。もちろん、結果的に総和が0に収束するものなら良いんだよな」
『ええ。それは大丈夫なのですが……』
「それは……? まるで他にもある、みたいな言い方だな」
『……それはまた後日。それより、過去数日間の間に、古代の建造物に近づきましたね?』
「ああ。あの隆起したラボのことか」
『それでしたら、お話が早いですね』
「ん?」
『あの場所が地震で地下深くに沈んでしまう前に、ラボ内部の資料やサンプルを回収していただきたいのです』
「何故だ。アンタなら中身くらい知ってるだろ」
『頼みましたからね。……これは「依頼」ではなく「警告」に近いものです』
「あっ、おい」
ジルの問いかけを遮るように、世界が再び歪み始める。
『先人の失敗は、次世の踏み台ですから。……貴方がそれをどう扱うか、見ていますよ』
「……ノア」
視界が不意に開けると、そこは先程の執務室だった。
「ジル君?」
「今、何が起こった?」
「ええと、ジル君が虚空を見つめたまま、ちょうど30秒間完全に静止しました」
ジルは首筋をさすりながら、忌々しげに吐き捨てた。
「……女神に拐われた」
「左様ですか。それは災難でしたね」
ノアは特に驚く様子もなく、手元の資料を整理し始める。
「それで、女神様は何と?」
「ラボを調べ、サンプル等を回収しろと。地震で完全に沈没する前に、だそうだ」
「……なるほど。召喚技術の補助は、もうしばらく後になりそうですね。女神様がそこまで仰るなら、あそこには何か『生かしておくべきもの』があるのでしょう」
ノアは軍帽を被り直し、不敵に笑った。
「では、調査の再開手続きをしてきます。ジル君、今度は『ラクガキ』ではない正式な図面を用意させますよ」
「……ああ。やれやれ、残業確定か」




