第70話「落ちていく」
——どうしてこうなった?
——俺様は、どこで間違えた?
夜空高く打ち上げられながら、フル・オレイズの脳裏には走馬灯のように過去が駆け巡っていた。
答えは分かっている。
"底辺として生まれた"。
そう自覚した、その瞬間だ。
最下層じゃない。
泥水の中でも、俺様は誰かよりは上だ。
そう信じたかった俺様は、いつからかこの狂った世界の「強弱」という思想にどっぷり浸かっていた。
斧一つありゃあ、大抵の奴は見下せた。
使える奴は全て使おうとした。
だが……あの理屈だけは、理論だけは、決して下すことができなかった。
俺様は、何にも分からねえ惨めな奴だ。
アイツの持つ、その圧倒的な正しさが——この世界の当たり前になる前に。
ヒュンッ、と。
風を裂く音が下から響いた。
見下ろすと、ジルが新しく発生させた円の「点P」を掴み、猛烈な速度で移動し、追いついてきていた。
「お前だけは……お前だけは殺さなきゃならねぇんだ……ッ!」
フルは血を吐くように叫んだ。
「俺とお前は近似している、フル」
並んで宙を舞うジルが、冷たい夜風の中で静かに言った。
「イコールで繋がれないのが残念だがな」
その言葉に、フルの奥底で何かが弾けた。
フルは両手で戦斧を構える。
生涯で最高級の一振りが出来る、そんな確信めいた予感がした。
全ての恨みを、コンプレックスを乗せた一撃。
「『数学者』……微分斬」
だが、振り下ろそうとしたフルの眼前に、ジルの冷酷な宣告が響いた。
空間に浮かび上がった数式の、分数を隔てる長い横線——括線が鋭い光の刃となって伸び、フルの胴体を薙ぎ払った。
しかし、傷はどこにも現れない。
血一滴すら流れない。
二人は、重力に引かれて落下し始める。
風切り音が耳を劈く中、フルは己の身体の異変に気づいた。
(……動けねえ。いや、違う。認めたくなかった。コイツはいつだって、バカには"分かりやすく"勝ってるんだ)
微分の刃は、フルの「肉体」ではなく、その「運動の変化率」を斬り裂いていた。
動こうとすればするほど、その意思と力の変化が限りなくゼロへと削ぎ落とされていく。
「……俺様にだって、もしかしたら出来るのかもしれない」
落下しながら、フルはポツリとこぼした。
「そう息巻いて、昔開いた数学書は……これまで拾ったどの魔導書より、気味が悪かった……!」
分からなかった。
何も見えなかった。
自分には絶対に手の届かない世界が、そこには整然と広がっていた。
「テメエには分かるってのかよ! 持たざる者の、この……苦しみが……ッ!」
「……一度だけ思った事があった。逃げた事があった」
ジルの意外な言葉に、フルは目を見開いた。
「もし俺が文系だったら。世界を数式や構造ではなく、ただの美しい景色として見れたら。……ただあの城で、楽をして生きていけたはずだ」
「……」
「だが、この世界はおかしい」
月光の下、ジルの灰色の瞳が悲しげに揺れた。
「文系のお前も、理系の俺も。まだ、誰も報われちゃいない」
「じゃあ、一体何が正しいってんだよ……ッ!」
フルは縛られた身体に鞭打ち、力強く戦斧を振るおうとした。
だが、その刃はジルには全く届かなかった。
まるで深い泥沼の中でもがいているように、動けば動く程、自身の動きが鈍くなっていく。
「……正解の無い問いだってある」
ジルは抗うフルを見つめながら、静かに語りかけた。
「人生ほど、変数が多くてゴミな式は無い。だが面白い事に、最後には等しく『0』に収束する」
死という絶対のゼロ。
"だから焦らなくていい"。
ジルはそう言いかけて、その言葉を静かに飲み込んだ。
それを言ってしまえば、フルの足掻いてきた人生そのものを否定してしまう気がしたからだ。
「どうしてテメエはそんなに……そんなに冷静で居られるんだ……?」
「さあ? 師匠のおかげかもな」
ジルはフッと笑うと、空中に指を走らせた。
「『数学者』、オーダーライン」
ジルの足元から地上へ向かって、真っ白な光の曲線——最速で落下するための軌道、サイクロイド曲線が描かれる。
ジルはその光のレールに乗り、フルの眼のパースから急速に小さくなっていく。
残されたフルは、ゆっくりと背に近づいてくる地上を見た。
凄まじい大気圧。
耳鳴りのような風音。
煌々と輝く月光と、真っ白な曲線を滑り降りるジルの背中。
(ああ……そうかよ)
その瞬間、フルは悟った。
自分は「上」に執着し、「下」を恐れて必死に足掻いてきた。
だが、目の前のこの男は。
(コイツは……最初から、上下に意味なんか与えてやがらねえ)
上も下もない。
ただ、そこにある座標と数式に従って、あるがままに落ちていくだけだ。
そのどうしようもない圧倒的な「真理」を見せつけられ、フル・オレイズはただ、悪態をつくしか出来なかった。
「クソが……」
直後、強烈な衝撃が、彼のとある変数をゼロへと帰した。




