第69話「吠えない狼と凡庸なハイエナ」part2 -軸-
フル・オレイズはかつて、アードストールの貧民街を仕切る親玉的存在だった。
腕っぷし一つで裏路地を這い上がり、やがて冒険者ギルドにその暴力的な才を買われ、取り巻きたちと共にBランクパーティーへと成り上がった。
そんなある日、貧民街で燻っていた同い年の獣人を拾った。
本人が「教職をクビになった」と自嘲気味に語る、理系の男。
フルは気まぐれと、ほんの少しの優越感から、彼を仕方なくパーティーに雇用した。
だが、すぐに後悔した。
自分より腕力は劣るはずなのに、その男の理知的な瞳は、常にフルの遥か「先」を見透かしているようだった。
自分より優位に立たれるのが嫌で、何より、力しか持たない自分の本質を見透かされるのが怖かった。
理系の分際で先へ行くその存在が、鬱陶しくて仕方がなかった。
『お前、クビだ』
そう告げてパーティーから追放した瞬間、フルは心底ホッとした。
胸の奥底にあった突っかかりが、スッと取れた気がした。
だが、安寧は長くは続かなかった。
金が足りなくなり、仲間に金品を盗まれる事態も発生した。
力だけでは、全てを掌握できない。
「金をよこせ」――その一心で、フルはなりふり構わず裏社会に身を投じ、暴力と恐怖で大陸中のマフィアのトップへとのし上がった。
情報すらも金に変えた。
貿易都市に拠点を構えたのは、単純に「最も金が稼げるから」だ。
元々強靭だった彼の武力は、今やA+ランクの冒険者にも匹敵する。
「お前は迫害の対象だ。忌まわしき理系は殺されるべきだ!」
フルは両手で戦斧を握りしめ、己の過去と現在を肯定するように叫んだ。
「なんでも正当化したら楽だろうな」
対するジルは、ただ静かに、憐れむような目でフルを見ていた。
「だが、人生は絶対値で測れないように出来ている。どんなに金を積んでも、暴力で塗り固めても……符号が反転すれば意味を成さない。俺が未だに解けない難問だ」
「知るかッ! 御託を並べるな!」
フルが戦斧を高く掲げ、詠唱を紡ぐ。
「簒奪者の後光、脳を溶かし、肉肌を焼き、腑を掻っ捌く。金で練り上げた鐵の戦斧に宿り、闇夜を照らせ!」
フルの魔力で赤熱した戦斧が、轟音と共に一直線に振り下ろされる。
右肩から左下へ、ジルの胴体を両断する完璧な軌道。
「スキル『数学者』、定座標」
ジルが短く呟いた、その瞬間。
(……世界が、裏返りやがった……!?)
フルは目を疑った。
両断したはずのジルの姿が視界から消え、フルの渾身の一撃は、なぜか自身の真上――地下室の分厚い天井のコンクリートに深く突き刺さっていたのだ。
世界がひっくり返った、と彼は錯覚した。
だが違った。一瞬ひっくり返ったのは、ジルの身体の「座標」だけだった。
「くっ……何をしやがった!?」
「身体の上下軸の符号を変えただけだ。俺の座標は『+』から『-』へと一瞬反転し、天井側に立った状態になった。だからお前の斧は上空を切った。良く追えたな」
天井の影から音もなく着地したジルが、冷酷に告げる。
「上や下に囚われるお前には、丁度良い目眩ましだろう」
「ふざけるな……! 上に立たなきゃ……俺様はここに居ねえんだよッ!」
フルが天井から斧を引き抜き、再び咆哮する。
「……前提を履き違えるな」
ジルの声は、氷のように冷たかった。
「お前の『軸』は、誰が決めた? 金か? 恐怖か? 座標として全体を捉えなきゃ、お前の力は一生こっちには届かない」
「黙れ黙れ黙れ!!」
「上下なんてものも、便宜上の座標の取り方にすぎない。原点が変われば、上は下になる」
「上に行かねぇと……俺様は、もう誰にも踏まれたくねぇッ!!」
フルの瞳には、血走った狂気と、貧民街で泥水を啜っていた頃の恐怖が混ざり合っていた。
「……そこまで固執するなら、吹き飛ぶといい」
その時。
ジルの中に、今まで感じた事のなかった感情が生まれた。
怒りでも、憎悪でもない。
かつての仲間であり、どうしようもなく道を踏み外した友人に対する深い、深い感情。
哀れみとも、引導ともつかない、静かな底知れぬ波。
「『数学者』、単位円:余弦波」
ジルの足元から、光の線が地を這い、フルの足の間に半径1の「円」を生成した。
そして、その円周上を一つの光の「点」が転がり始める。
カン……。
点が特定の角度を通過した瞬間、甲高い衝突音が鳴った。
カン……。カン……。
一周する度、円運動のx座標――すなわち余弦の値が周期的に脈動し、見えないエネルギーの波として空間に蓄積していく。
その規則正しい、しかし圧倒的なエネルギーのうねりに、フルは肌が粟立つような違和感を覚えた。
(……俺様は、いつから“上”にしか、居場所を作れなくなった……?)
ふと、走馬灯のように過去が過ぎった。
だが、後悔する時間は与えられなかった。
波の頂点が最大値に達した瞬間。
「……ッ!?」
蓄積された膨大な上方向へのエネルギーの波が、フルの足元から爆発的に解放された。
轟音。
フルの巨体は、抵抗する間もなく分厚いコンクリートの天井を突き破り、幾重にも重なる第13区の居住区を貫通して、瞬く間にイェクアールベッツィアの夜空へと吹き飛ばされていった。




