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第67話「グロリア団地」

 イェクアールベッツィア、第13区"ヨクスバフタウン"。

 通称、グロリア団地。


 地上から続く長く暗い階段を降りた先に広がっていたのは、ジメジメした地下道でも、犯罪者の巣窟らしい牢獄でもなかった。


 そこは、巨大な吹き抜けの空間にへばりつくように建設された、無数の集合住宅群。


 コンクリートと煉瓦が継ぎ足され、無計画に増築を繰り返したかのような歪な建物たち。

 それらが谷底のような空間を、視界の限り埋め尽くしている。

 だが、そこには確かな「生活」があった。


「あら、奥さん。今日の夕飯は?」

「うちは魚よ。上の市場で安かったの」


 井戸端会議をする主婦たちの声が、吹き抜けに反響する。

 窓という窓からは洗濯竿が突き出し、色とりどりの布が生活の旗印のようにパタパタとはためいている。


 子供たちがキャッキャと笑いながら、建物の屋上と屋上を繋ぐ細い橋を走り抜けていく。


 平和だ。あまりにも、平和すぎる日常。

 だが、その光景を見たスズナの白い狐耳が、ピクリと不快そうに震えた。


「……これじゃ被害は出せない」



 その呟きは、この場の全員が抱いた感想そのものだった。

 敵のアジトがあるはずの場所。

 しかし、ここを攻撃すれば、無関係な住民を巻き込むことは避けられない。

 彼らは意識することなく、最強の「人間の盾」となっている。


 ジルは黙って、頭上を交差する無数の橋を見上げた。

 木製のもの、鉄骨のもの、石造りのもの。

 まるで巨大な蜘蛛の巣のように、シンプルながらも不気味に建物同士を連結している。


「……橋が多すぎる」


 ジルの呟きに、ポラリスが首を傾げた。


「便利だからじゃないの? いちいち階段降りなくていいし」

「いや……生活動線にしては過剰だ」


 隣の棟へ行くだけなら一本でいい。

 だがここには、上下左右、斜めに至るまで、執拗なまでに橋が架けられている。

 それは移動のためというよりは——。


 スズナが、彼女特有の空間把握能力でその全貌を捉え、ボソリと言った。


「……逃げ道だらけ」


 ジルは無言で肯定した。

 攻め込まれた際、どこからでも逃げられる。逆に言えば、追う側はどのルートを選べばいいか瞬時に判断できず、攪乱される。


 だが、住民はどうだ?

 これだけ複雑なら、毎日暮らしていても迷うはずだ。


 ジルは目を細め、はためく洗濯物の海を数え始めた。


 北側の棟には、黄色いシーツやシャツばかり。

 南側の棟には、白いタオルや肌着。

 西側には、赤い布地。

 東側には、青い作業着やデニム。


 そして斜めの棟には、橙、緑、空色、桃色……。


(……偶然じゃない。方角を示しているな)


 無秩序に見える洗濯物の海は、実は高度に計算された「標識」だった。

 その仮説を裏付けるように、橋の上を走り回る子供の声が聞こえてくる。


「青い方に帰るんだよ!」

「わかってるよー!」


 子供たちは迷わない。

 この複雑怪奇な構造を、色と方角で完全に把握している。

 住民にとっては、勝手知ったる我が家の庭。

 だが、ルールを知らない侵入者にとっては——。



 夕刻。


 遥か頭上、吹き抜けの上部にある採光窓から、赤い夕日が差し込んできた。

 無数に架けられた橋の上を、家路につく人々の影が行き交う。

 その影の多さに、めまいすら覚えるほどだ。


 ジルは、圧倒的な「詰み」を自覚し、静かに零した。


「……迷宮だな」


 ポラリスがキョトンとして尋ねる。


「どこが? 道はいっぱいあるよ」


 ジルは夕日に染まる洗濯物の森を見つめながら、短く答えた。


「出口が無い」


 入り込んだが最後、生活という名のシステムに飲み込まれ、二度と目的にはたどり着けない。

 それが、このグロリア団地の正体だった。

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