第59話「祭りの夜の片隅で」
貿易都市イェクアールベッツィアは、役割ごとに全18の区画で構成されている巨大都市だ。
ジルは7区にある冒険者ギルド支部の一室で、通信魔道具の受話器を握りしめていた。
その隣には、面白がってついてきたカノンも「スピーカー機能無いのー?」とニヤニヤしながら聞き耳を立てている。
「……で、どういうつもりだ。"創世の数学者"というのは」
〈……お気に召しませんでした? クウと一生懸命考えたのですが〉
通信の向こうから、アメの申し訳なさそうな、しかしどこか楽しげな声が聞こえてくる。
〈字面、格好良いっすよね。世界を計算で作り変える、正解を叩きつける……みたいな〉
「クウ、お前か。……この名前のせいで、受付で二度見される俺の身にもなれ……その、分かるだろ」
〈雷狼の少年は良いのに、"創世の数学者"はダメなんすね。二度見されるのはまぁ……有名税ってやつっすよ。諦めてください〉
悪びれもないクウの返答に、ジルは深いためにきをついて通信を切った。
これ以上抗議しても、「プラマイゼロ」だの何だのと言いくるめられる未来しか見えない。
それでも——やがてこの新しい二つ名を認めねばならない時が来るのだが。
その日の夜。
6区では、経済の神を祀る祭りが盛大に開かれていた。
通りには無数の屋台が並び、色とりどりのランタンが夜空を埋め尽くしている。
どことなく、メリアー諸島での祝宴や、今は廃止されたアードストールでの祭りを思い出させる光景だった。
「ほら、行ってこい」
ジルは、鞄からメリアー諸島での依頼達成料でパンパンに膨れ上がった革袋を取り出し、アーク、カノン、ポラリスの三人に手渡す。
「えっ、いいの!? ジルってば太っ腹ー!」
「ありがとうございます、先生!」
「せんせー、これ結構な額だよ? 何か裏があるんじゃ……」
「無い。ただの臨時収入の還元だ。……流石に少しは残しておけよ」
ジルが釘を刺すのも効かず、三人は歓声を上げて人混みの中へと消えていった。
教え子たちの笑顔が、やはりどの屋台よりも美しく輝く。
保護者役から解放されたジルは、喧騒を背に、1人静かな場所を求めて港へと足を向けた。
夜の港は、祭りの熱気が嘘のように静まり返っていた。
波が岸壁を打つ音だけが響く。
南の方角——メリアー諸島がある方をぼんやりと見つめて、ジルは手すりに寄りかかる。
その時、暗い海の上に、ぽつんと漂う小さな影を見つけた。
祭りの騒音が一段、また一段と遠のいていく。
小舟。
無人のようにも見えたそれは、微かに何かが横たわっているような違和感がある。
(……遭難か? それとも)
ジルは即座に行動を開始した。
「スキル『数学者』座標表示」
視界にグリッドが走り、小舟の現在位置が数値として算出される。
距離はさほど遠くない。
「確定」
ジルの姿が港から掻き消え、次の瞬間には、波に揺れる小舟の上に立っていた。
木の舟の上には、確かに少女がいた。
(……亜人か)
上にはふさふさとした獣耳。
狐と思しき特徴を持っていたが、その毛並みは大陸で見かける狐人族とは違い、白に近い色をしている。
身に纏っている衣服も奇妙だった。
帯で締められた、ゆったりとした布地。
大陸の様式ではない、未知の雰囲気をもつ装束だ。
「ん……」
ジルの気配を感じたのか、少女が眠たげに声を漏らし、ゆっくりと瞼を開いた。
その瞳に、夜空の月光が反射する。
淡金色の瞳。それはまるで、いつだったか観測したハーヴェストムーンのように美しく、そして冷たく輝いていた。
目が合った、その瞬間。
「……離れて。近い」
氷のように冷たい言葉が、彼女の第一声だった。
警戒心というよりは、明確な拒絶。
「……悪かったな。救助が必要かと」
ジルは言い訳をせず、小舟ごと港への転移を行った。
一瞬の浮遊感の後、二人は港のコンクリートの上に移動していた。
少女は驚く様子もなく、ただ不快そうに身を起こすと、膝を抱えて座り込んだ。
震えるでもなく、ただ警戒心を前面的にアピールしているようにも思える仕草。
「どこの国から来た? 名前は?」
ジルが問いかける。
少女は顔を伏せ、膝に顔を埋めるようにして答えた。
「話しかけないで」
相変わらずキツい。
取り付く島もないとはこのことだ。
だが、ジルは腹を立てることもなく、やれやれと肩をすくめた。
これでも元教師。
言うことを聞かなかったり、心に壁を作った子供の相手なら、腐るほどしてきた。
それに、理系。
この世界において、理系というだけで石を投げられ、蔑まれ、拒絶されることには慣れている。
理由のない拒絶など、彼にとっては日常茶飯事だ。
(あいつらを呼ぶか。カノンあたりなら、強引に心の扉をこじ開けるかもしれないな)
ジルは鞄から採血道具を取り出しながら、少女を横目で見た。
少女は、ジルと目を合わせようともせず、ただ頑なに夜の海を見つめていた。




