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第56話「13年の埋め合わせを」

メリアー諸島 東島アストグ



男——ギデオン・アウル=フォードが、ゆっくりと膝をついた。

その瞳にかかっていた濁った霧が晴れ、老いた賢者の瞳に理性の光が蘇る。


「……吾輩は、いったい何を……?」


呆然と自分の手を見つめるギデオン。

まどろみの中に意識が片足を突っ込んだままで、記憶が黒い水に沈んだように、曖昧としている。

エマが駆け寄り、その胸に飛び込んだ。


「パパ。おかえり」

「エ、エマ……なのか」


父の温もりに触れた瞬間、エマの脳裏に、長く辛かった日々の記憶が走馬灯のように駆け巡った。



——13年前。


エマがまだ市民学校に入学したばかりの、6歳のころ。

ある日突然、父ギデオンは姿を消した。


残されたのは幼いエマ一人。

当時のアードストール王国には、ロクな教師も居らず、行政による生活支援も皆無だった。

ただ、父が残してくれた発明の特許金だけが、彼女の唯一の命綱。


だが、幼い子供が一人で生きていくには、世界はあまりに残酷すぎた。

一年も経たずに貯金はそこをつき、エマは市民学校を辞めざるを得なくなった。

父との思い出の詰まった、ヘイル村の家も売った。

その日、ヘイルからは最後の住民が消え、"廃村"と呼ばれるようになった。


行き着いた先は、王都の貧民街。

薄汚れた裏路地で、空腹と絶望に震えて座り込んでいたある日。

ザリッ、と重い音がして、目の前に革袋が落ちてきた。


驚いて顔を上げると、そこには獣人の大男が立っていた。

逆光で顔はよく見えなかったが、その狼の耳と、鋭くもどこか理知的な瞳だけが印象に残った。


「どうして……」


見ず知らずの子供に、これほどの大金を。

男はぶっきらぼうに言った。


「知らねえ。たかが8つのガキが、親も居ねえでこんな所に座ってる……それが見てられねえんだよ」


男は背を向け、去り際にこう言い残した。


「せめて勉学に勤しむこった。知恵は金と、力とイコールだからな」



——現在。


「私はいっぱい勉強したよ。その人が、知恵は金と力になるって……そう言ってくれたから」


エマは涙を拭いながら、しっかりと父を見つめた。

その言葉を聞いたギデオンは、顔を歪め、地面に額を擦り付けるようにして深くひれ伏した。

植物だった灰が、彼の単眼鏡を奪い取る。


「すまなかった……! 全て、吾輩が不甲斐ないせいなのだ……エマ。どうか、この13年分の埋め合わせをさせてほしい……ッ」

「パパ……」


親子の再会を少し離れた場所で見ていたジルは、ふと記憶の彼方にある光景を思い出し、独りごちた。


(そうか。あれは……)


ジルは静かに歩み寄り、膝をついているギデオンに問いかけた。


「……感動の再会に水を差して悪いが、いくつか確認させてくれ。廃村ヘイルの呪い……あの噴水の魔法陣は、村が"あの頃のまま"で居て欲しかったからなのか?」


時間を止める——或いは歪める程の、強力な魔法。

それは悪意というよりは、執着に近いものだった。

ギデオンは顔を上げ、重々しく頷いた。


「……いかにも。吾輩の魔法陣は、設置したものに効果を付与するもの。ただ……魔法陣とて、魔法なのだ。もし何者かの意思が介入すれば——」

「変数Wは改変される、か」

「そうだ」

「なら、メリアミンレーツの魔法陣は……」


エマがハッとして口元を押さえる。


「奴自身の意思が介入し、私が設置したものとは異なってしまったのだろう。あの黒い海とて……本来は汚染物質を分解し、海を清浄に保つ為の『浄化作用』のあるものだった」


確かに、ジルがスキルで標本調査をした限りでは、海水のあらゆる数値は正常値であった。

海神の「忘れられた寂しさ」と「怒り」が介入したことで、それは海を飲み込む黒い水の呪いへと変質してしまった。


(魔法じゃ、不確実すぎるな)


「……なら、おかしい事がある」


ジルは、ギデオンの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「あんたは魔王軍の幹部として操られていただろ。どうして人間の土地や海を、浄化しようと試みたんだ?」


保存や浄化。

ギデオンの行動原理は、魔王軍のそれとは矛盾している。

ギデオンは、憑き物が落ちたような穏やかな顔で、遠くの海を見つめた。


「故郷が美しく有って欲しいと思うのは……生物として、当然のことではないのか?」

「……」

「吾輩は、その本能に従ったまでだ」


その言葉に、ジルは小さく息を吐いた。

彼もまた、誰かの都合で「悪」にされた、ただの探究者だったのかもしれない。


東島にて灰になった外来種の動植物は、なめらかな風に吹かれ飛んでいく。

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