第55話「2人の詠唱」
本島ガレロの沖は、文字通りの地獄と化していた。
荒れ狂う海神メリアミンレーツの巨体を前に、アークたちは防戦を強いられている。
「はぁ……っ、はぁ……! 埒が明かない……!」
カノンが大剣を振るい、アークが付与した炎で海水を蒸発させようと試みるが、海神の質量はあまりにも膨大だった。
一瞬の蒸発など、直後に押し寄せる冷たい海水によって容易に掻き消されてしまう。
「ねーっ! ポラリス! 何とかしてよ!」
「落ち着きなよカノン。ボクたちがすべきことは、時間を稼ぐことだ。せんせーのケイサンを信じようよ」
ポラリスは余裕を崩さないが、その視線は鋭くアークを射抜いていた。
「アーク。君だって、本当は分かってるんじゃない? 魔法より強いものが何か、さ」
「……! 確かに、この3ヶ月、先生の隣で掴んだものは有ります。……それでも、私は……」
アークの指先が震える。
相手は自然、海そのものだ。
個人の魔力でどうにかなる領域を、数学という概念が超えられるのか。
「暫く猶予を作るよ。その間に考えて」
ポラリスが血液魔法を展開し、盾となって海神の突進を受け止める。
アークは目を閉じた。
(私では力足らずです……。どうか先生、力を貸してください)
一方、東島アストグへと急ぐジルとエマ。
ジルは走りながら、両手に二振りの「インテグラル」を形成していた。
「スキル、『数学者』 デュアルインテグラルサーベル」
ジルの脳内に膨大な演算式が浮かび上がる。
雷と炎。相反する二つのエネルギーの電圧と熱を、それぞれ別個の項として収束させる。
(魔導関数 M=(E•v•W)²に電圧と熱量を代入、Wは定数1。速度vは……)
「ふっ……導解った」
ジルが演算を完了させた瞬間、左手の「炎のインテグラル」が真っ赤に発熱した。
それはもはや魔法の火ではない。
計算によって導き出された「絶対的な熱」の塊。
「行け……ッ!」
ジルがインテグラルを遠く海上の化身へと投げ飛ばす。
それと同時に、隣を走るエマが杖を掲げ、凛とした声で古代語を紡いだ。
「この祈りは確実、運命を曲げ、私の望みは果たされる。たった一つの想い、血族の解放」
再び、海上のアーク。
空の彼方から、紅蓮の光を放つインテグラルが飛来するのが見えた。
「……まずは、"海"ではなく、自分に勝つ。そうイメージして紡ぎましょう。私が先生と出会わなかったら、辿り着けなかったはずの……最高の魔法を」
アークは恐怖を捨て、自らの魔力を「熱量」という数値として定義し始めた。
「それは人類の結晶。揺るがぬ事実。原初の発明にして栄光の証」
ポラリスが驚愕に目を見開く。
(流石、ゲーツ1の魔力持ちだね。こんな事すら……)
アークの周囲の気温が、物理法則を無視して跳ね上がっていく。
「それは100,000℃。1700の海水も、砂時計一つで消し去る炎」
ただ思い浮かべた。
過去の自分が驕っていた、その事実すら燃やせると。
「極熱が始まり、滞留は終わる。――開演と行きましょう」
ただ知性が赴くままに言葉を選んだ。
飛来したジルの炎のインテグラルが、アークの魔力と共鳴する。
それはもはや既存の系統魔法ではない。
理数的な根拠に基づき、魔力の出力を強制的に「正解」へと固定する新体系。
事実の列挙。
「この魔法に、名前をつけるなら……そう、"数魔法」
真っ白な熱線が海神を貫いた。
海そのものが沸騰し、一瞬で蒸気へと変換される。
長くも短い60秒。
祠が綺麗な形を維持できるギリギリの温度制御を保ちながら、アークは海を焼き切った。
そして東島。
ついに父の影を捉えたエマが、最後の一節を叫ぶ。
「解呪魔法、エンド・フレース!!」
パリン――。
重く呪いを繋ぎ止めていた、目に見えぬ鎖が砕け散る。
呪飼のギデオンを縛っていた闇が、ジルの計算とエマの願いによって、ついに霧散した。




