第52話「怒りの正体」
「神話は薄れ、水はただの資源へと堕とされた。流れとは記憶であり、深淵とは裁定であると忘れる事勿れ」
化身の低い声が、遠くの海面を震わせる。
「沈むは何か。穢されたのは水か。増長した文明は沈んだ。思い出せ——災難を、再誕を」
潮が、まるで化身の巨体を一周するように大きな輪を作り出す。
依然黒いままの海は、化身の白く光る核に呼応するように揺れるばかりだった。
ジルの数式によって生み出された分厚い氷もまた、南国の強烈な気象に負け、徐々に海へ溶け出ている。
だが、勝負はあの一撃で決まっていたらしい。
南国の温暖な海の化身にとって、極低温の氷による「頭を冷やす(物理)」攻撃は効果覿面すぎたようだ。
化身の動きは見るからに鈍り、威圧感も急速に萎んでいく。
「……寒い。動きにくい。解せぬ」
化身がぼやいた。
神性がだいぶ薄れている。
「なーんだ。構ってくれなくなったから寂しかったんだね」
ポラリスが、水たまりから顔を出した犬を扱うかのように、化身の巨大な頭部をよしよしと撫でた。
本来なら不敬で天罰の一つでも当てられそうなものだが、化身は寒さでそれどころではないらしく、されるがままになっている。
そこへ、騒ぎを聞きつけた メリアーの民たちが、船や小舟に乗ってわらわらと集まってきた。
頭首タクタを先頭に、おっかなびっくりといった様子で化身に話しかける。
「あ、あの……メリアミンレーツ様……でっしゃろか?」
「……左様」
「おお! やはり! ほんなら海の恵をお返し頂けまへんでしょうか? ほんま、この通りや!」
タクタが揉み手をしながら懇願すると、後ろの民たちも口々に叫び始めた。
「頼んますわ! 漁が出来ひんくて、うちの嫁はん病んでもうたんです! 家の雰囲気が最悪なんですわ!」
「このままでは観光客も減って、若いもんが大陸に流れてまいます! 近頃酷いのに、もっと過疎化が進んでまう!」
神への畏敬というよりは、あまりにも世俗的で切実な陳情大会になっていた。
横で見ていたアークは、思わず眉をハの字にする。
(まずは忘れていたことを謝罪するべきなのでは……?)
だが、化身はアークの心配をよそに、疲れたように首を横に振った。
「見当違いも甚だしい。これは、私がやったのではない。……私がこのような事をしても、何の得もないだろう?」
「……へ? ほな一体誰が……」
タクタが呆気にとられる。
その横で、祠を引っこ抜こうと踏ん張っていたカノンに民衆が「バチ当たりが!」「何をしよんねん!」と小石が投げられた。
「痛っ! 何、もう!」とカノンは不貞腐れて祠から手を離した。
化身は、自身の体を構成する黒い水を忌々しげに見つめ(目は無いように思えるが)、重々しく告げた。
「この海は、呪われているのだ」
その一言で、場は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「呪いやて!?」「祟りや!」「どないせい言うねん!」とパニックになる民衆。
化身はため息混じりに続ける。
「私は確かに、憤怒に近しい感情を振るっていただろう。だがそれは、私を忘れた民たちへの寂しさと——この代わりの身すら痛めつける、呪いの苦痛に対してなのだ」
怒りは忘れられたことの寂しさに。
苦しみは体を蝕む呪いの激痛に。
無力感は海の神でありながら、自分の海を浄化できない自分への情けなさに向けられていた。
それらが混ざり合い、暴走していたのが真相だったらしい。
「……結局、議論会でクウが言った通りだったわけだな」
ジルは腕を組み、やれやれと肩をすくめた。
「自分たちの都合の悪いことを『神の怒り』というブラックボックスに放り込んで、責任の押し付け。思考停止の末路か」
「耳が痛い話やなぁ」
「……神の怒りは、関係の無い式の解だったな」
タクタがバツが悪そうに毛のない頭を掻く。
そして、カノンが一番聞きたくなかった結論にたどり着き、天を仰いで叫んだ。
「呪いってことは……またギデオンのせいじゃーん! はー、めんどくさー! あいつ本当どこにでも湧いてくるんだけど! ゴキブリなの!?」
南国の空に、カノンの魂の叫びがこだました。




