第51話「海神の化身」
「なら、早速行くぞ」
ジルは地図をパタンとたたむと、スキルを発動して何やら空中に指を走らせ始めた。
ヤーアーリンまでの距離を測定し、インターフェースを広げ、数字や記号を次々と打ち込んでいく。
「スキル『数学者』、オーダーライン、ポイントP:スライド」
西に向かって、海の上を走る3.8km程の、光る糸のような線分ABが現れた。
そしてジルの手元には、野球ボールのような白い球体が出現する。
その上には「P」と、あの忌まわしき文字が浮かんでいた。
「えっ……先生まさか」
「ああ。これで行く」
「何かヤバそうだし、ポラリス乗せてってー」
「うん、いいよ」
カノンがポラリスにおんぶをねだる。
ポラリスは気安くそれを受け入れ、背中にカノンを乗せると、「アークはどうする?」と余裕そうな表情を浮かべた。
アークは少し迷ったが、師匠への信頼と好奇心を選んだ。
「……こちらの方が、風を感じられそうです」
ジルは「落ちないようにな」と短く告げると、点Pの速度定義を脳内で完了させた。
(――点Pは線分AB間3800メートルを12秒で移動する。気温34℃の音速は約351m/s。導き出される平均速度は316m/s……マッハ数に換算するとおよそマッハ0.9)
「スキル、『数学者』マルチサークル」
ジルの両肩、両腕付近に「×16」と筆で描かれたような数字が現れ、彼が点Pを掴む握力が増幅された。
アークがジルの腰にしっかりと抱きつく。
「スライドスタート」
ドンッ!!
爆音と共に、世界が後方へと置き去りにされた。
カノンに砂がかかり、「ちょっ!」と半ギレするも、その声は届かなかった。
海面スレスレを高速移動するジルとアーク。
黒い海と、点Pが切り裂く大気の衝撃波がぶつかり、激しい波しぶきが生まれる。
痛い。速い。風が刃物のように頬を叩く。
「せっ…先生! これは一体、どうやって停止を…っ!?」
「……」
アークは強風に吹かれ、口の中に空気が押し込まれそうになりながら叫ぶ。
だが、ジルは答えない。
いや、止まることなど考えていなかった。
等速直線運動において、点PはB地点まで止まらない。
迫りくる西島ヤーアーリンの岩肌。
このままでは激突する。
「チッ……計算通りだが、やはり速いな」
ジルは冷静に、次の手を打った。
「スキル『数学者』、グラファイザー」
衝突寸前、ジルの前方に巨大な光の曲線が現れる。
それは二次関数 y=xの二乗の放物線。
点Pがそのグラフに沿って急上昇し、ジルとアークの体は空高く打ち上げられた。
「うわああああっ!」
「スキル『数学者』第四段階《現実演算》、0.98 ≤ G ≤ 9.8」
空中で放り出された二人の落下速度が、ふわりと緩やかになる。
まるで羽毛が落ちるように、二人は西島ヤーアーリンの砂浜へと静かに着地した。
少し遅れて、ポラリスとカノンも音もなく降り立つ。
「先生……寿命が縮まりました……」
「そうか? 計算通りの安全なフライトだったはずだが」
ふらつくアークを支えつつ、ジルは目の前の光景に目を向けた。
島の中心には、白くて蔦が絡まった古びた祠がひっそりと佇んでいた。
周囲の黒い海とは対照的な、清浄な空気を纏っている。
ジルがその祠にそっと手を触れた、その瞬間だった。
カッ!
黒い海が一瞬だけ白く発光し、海面が盛り上がる。
目の前に現れたのは、不定形の巨体。
姿形は周囲と同じ黒い水で構成されているが、その胸元には核となる白い光が脈打っていた。
海神の化身。
そう呼ぶにふさわしい威圧感。
「畏れた。崇めた。奉った。何れにせよ、総ては過去の慣し、或は消された歴史……」
化身の口から発せられるのは、言葉というよりは、海鳴りのような重低音だった。
「凡愚共はやがて忘れた。穢した。勘違いした。この"大海"の存在を」
詠唱が始まる。大気が振動し、魔力が渦を巻く。全員が反射的に身構えた。
「魔法防衛・衝水」
ズズズズズ……!
地響きと共に、西島ヤーアーリン全体が激しく揺れ始めた。
いや、揺れているのではない。沈んでいるのだ。
地殻変動により島そのものが海中へと引きずり込まれていく。
唯一、祠だけが海上に残るように、不自然に浮き上がっていた。
「ああっ! 祠が!」
カノンが咄嗟に飛び出し、微かに上にズレていく祠を引っこ抜こうと抱きつく。
足場がなくなる中、ジルは冷静に化身を見据えた。
「まずは怒りを測ろう。数値化する為に、変数を固定、拘束する」
ジルは虚空からとある記号を取り出した。
かつてトートが使っていたものと同じ、しかし色はジルの魔力である純白の輝きを帯びた「∫」。
「スキル『数学者』、インテグラルサーベル」
ジルがインテグラルを大きく横に振るう。
その軌跡に沿って、黒い海面がパキパキと音を立てて白く染まっていく。
一瞬にして、化身の周囲の海が分厚い氷に閉ざされた。
荒れ狂う波も、沈みゆく島も、すべてが凍りつき、静止する。
「えっ……先生!? 魔法……?」
アークが目を丸くする。
理系であるジルに魔法は使えないはずだ。
「女帝ハレーの氷郷魔法とやらを、部分的に収束・一般化しただけだ。俺が魔法を使ったわけじゃない。魔導関数の式に当てはめたらこうなった」
ジルは氷の上に立ち、剣のようにインテグラルを構え直す。
「それより……来るぞ」
凍りついた海を割り、自由を奪われた海神の怒りが、さらに膨れ上がろうとしていた。




