第50話「穢れた海」【第三章開幕】
メリアー近海。
月明かりは、海原を行く帆船だけを白く照らしている。
本来ならば海面にも月光の道ができるはずだが、今の海はただ深く、重く沈黙していた。
「……これは、夜間だからといった理由ではなさそうですね」
アークは一人、甲板の手すりから海面を見下ろして呟いた。
そこにあるのは海水のようで、海水ではない。
光すら飲み込む、インクのような黒い流動体に見えた。
背後で足音がして、ジルが眠たげに狼の耳を掻きながら現れる。
「そろそろ寝ろよ。明日は早い」
「はい、先生」
アークは素直に頷き、客室へと戻った。
だが、胸に渦巻く薄らとした不安——或いは、夜だというのに肌をまとわりつく湿った暑さが、彼女を眠らせるのを少しばかり邪魔した。
「……今晩は液状で寝ましょうか」
翌朝 メリアー諸島 本島ガレロ。
昨晩の不気味さが嘘のように、強烈な太陽光が降り注ぐ港町。
「バカンスだーっ!」
「おー!」
「観光だーっ!」
「おー!」
「ミステリアスで、グラマラスなスイーツ探検だーっ!」
「おー!」
「デミっちにお土産を買うぞーっ!」
「おー!」
南国ムード全開のシャツに着替えたポラリスとカノンが、謎のコールアンドレスポンスを繰り広げている。
ジルは「好きにしろ」と手を振り、その陽気な二人を見送った。
彼とアークは、早速調査のために海岸線へと向かう。
道中、南国特有の極彩色の鳥や、背の高い木々が目に入る。
「それにしても……自然が豊かで、何か…詠唱のインスピレーションが湧きそうな島ですね」
「そうだな。デミトアが居たらきっと、動植物の観察に勤しむだろう。例えばあれ」
ジルはそういうと、道端に生えていた大きめのヤシ科の植物を指差した。
「確かに……木の高さや成ってる実の個数まで記録しそうですね…」
アークがクスクスと笑う。
ジルは、そんなアークの横顔に、かつての教え子エマの面影を無意識に重ねながら、穏やかな口調で植物の植生について語った。
やがて、二人は人気の少ない岩場へとたどり着いた。
目の前に広がるのは、夜と同じく、ドス黒く染まった海だ。
「スキル『数学者』、データ表示」
ジルの瞳にデータが走る。
他にも座標表示や、成分分析、流体シュミレーションを同時に試す。
「……奇妙だな」
「何かわかりましたか?」
「pH8.1、塩分濃度3.4%。その他ミネラル成分……全て正常値だ。つまり、ただの海水だ」
「えっ? でも、こんなに黒いのに……」
アークが恐る恐る黒い海水を指先ですくう。
指に乗った水滴は透明だが、海全体として見ると光を通さない漆黒に見える。
ジルはさらに深く解析を進める。
「これは物理的な流れじゃない。染料でも、ヘドロでもない。……この海域一体の魔力そのものが、黒く変質している」
「魔力が……?」
「ああ。つまり、自然現象じゃない。人為的なものだ」
ジルが断定すると、アークは眉を曇らせた。
「私が聖魔法を使えたら良かったんですが……ここまでの澱みは、たとえ私でもちょっとやそっとじゃ浄化できません」
「……」
「早速、行き詰まってしまいましたね」
原因物質がない以上、化学的な浄化も物理的な除去もできない。
だが、ジルは不敵に笑った。
「いや……あのふざけた頭首タクタは、意外と良いヒント……仮説を提示していたのかもしれない」
「それは一体…?」
「……感情論ではあるが、"海の絶対王を怒らせた"とな。その怒りを、未知数xとして式に落とすとしよう」
その時、「おーい!」という声と共に、両手にココナッツジュースや焼き魚を持ったカノンとポラリスが戻ってきた。
「せんせー、もう調査終わり?」
「ああ」
「ジルんとこはどうだったのー?」
「……あんまりだ」
ジルは多少不快そうに海水を見つめた。
「こっちは聞きこみとかしててさー。なんかー、漁師さんたちが話したがらなかったからちょっと叩いたんだけど。海神? 絶対王? がどーのこーのって…」
「おい、叩…」
生温かい海風に吹かれながらも、カノンは地図をパッと広げた。
「えーっとね、祠ってのがここから西の小島にあるみたいでさ!」
「西島ヤーアーリンっていうらしいね」
「なるほど…」
ジルが地図を確認しようとすると、ポラリスがニヤリと笑って、その肩に腕を回した。
「ねえ、行ってみようよ。その『海の絶対王』の祠にさ」
「……挨拶にか?」
「ううん。ちょっかいをかけにさ」
ポラリスは楽しそうに、黒い海の向こうに見える島を指差した。




