第12話 「SECOND STAGE」
同棲二日目。
絹のシーツの滑らかな感触を確かめながら、ジルはゆっくりと身を起こした。
窓から差し込む朝日が部屋を照らし、存外に清々しい気分だった。
「さて、今日の朝飯は何だろうな」
食事を終えると、デミトアは「では、わたくしはこれで」と仕事部屋へ向かおうとした。
訳もなく、ジルは彼女を引き留めていた。
「デミトア、午後は仕事があるんだってな」
「え? ええ。国家資産等の整理をしなければならないのですわ」
「そうか」
ジルの気の抜けた返事に、デミトアは思わず首を傾げる。
(どうしてわたくしの用事を気にするのでしょうか?)
その疑問は口に出されることなく、彼女は仕事部屋へと消えていった。
ジルは手持ち無沙汰に、庭に咲き誇る薔薇をぼんやりと見つめていた。
しばらくして、デミトアの仕事部屋の方から「うーん……」という唸り声が聞こえてくる。
気になって覗いてみると、デミトアが分厚い資料の山を前に、壁を睨みつけてうんうん唸っていた。
「どうした。計算ごとか?」
「そうなのです! この予算会計がどうしてもうまくいかなくて……」
ジルが軽い気持ちで「どれ、見せてみろ。教えてやろう」と彼女の隣に立った、その時だった。
「スキル、『数学者』」
デミトアがそう唱えると、彼女の目の前の空間に、白みがかった緑色の数字がすぅっと浮かび上がった。
それはまるで、半透明のキーボードとディスプレイのようだ。
彼女が指先で空中に数字を打ち込むと、その計算結果が即座に表示される。
だが、それだけではなかった。
答えとして導き出された数字そのものが、光るオブジェのように空間に具現化していく。
「あぁ! なるほど、四から六桁目を全て間違えていましたわ!」
「『数学者』スキル……だよな? 応用か?」
「……ふふ、少しだけ自慢ですの。わたくし、幼い頃からこれを鍛えてきましたから」
自慢げに微笑む彼女を見て、ジルは嫉妬に近しい何かを覚えた。
自分から数学を取り上げたら何も残らないと思っていたのに、自分よりも巧みに、そして美しく数式を操る人間が、こんなにも近くにいた。
目前にチラつく緑の光に触発され、ジルもまた、意識を集中させた。
(いけるだろ、俺には数学しか無いんだから……!)
彼女のスキルに、自分のスキルが共鳴するような不思議な感覚。
頭の中にあった数式が、現実世界に溢れ出してくる。
――スキル『数学者』第二段階、開放。
世界が、変わった。
これまで頭の中だけで構築していた空間図形や平面図形が、より複雑に、より巨大に、そしてより速く展開できる。
渦のような思考が、滝となって流れゆく。
新品の、より大きなノートに買い替えたような、悦びと開放感。
そして何より、空中のインターフェースで打ち込んだ数字を、攻撃力を持つ物体として具現化できるようになった。
試しに「1」という数字を生成して指で弾くと、それが銃弾のような速度で飛び、壁に小さな穴を開けた。
「どうして……わたくしでも二年前に見つけたばかりなのに」
「凄いなデミトア。お前のおかげで、まだまだ楽しめそうだぞ、このスキル」
ジルが興奮気味に言う。
デミトアはただ、空間に浮かぶ数式の羅列を見つめていた。
「……だが、何で俺のは白いんだろうな?」
「分かりません……一種の個性だと捉えればよろしいかと」
「ふーん」
ジルの数字は、純白の光を放ち、宙に浮かんでいる。
「美しい……ですわ」
息を漏らす彼女に構わず、ジルは新しい玩具を手に入れた子供のように、庭へ飛び出した。
「よし、ここにするか」
「待ってください!」
窓から顔を覗かせるデミトアに、ジルはつい視線を向ける。
「薔薇を傷付けたらビーグル辺境伯がお怒りになります! あくまでも屋敷を借りている立場ですから!」
「分かった」
ジルは静かに頷くと、正面に向き直った。
青々とした芝生がどこまでも広がっていて、丁寧に整えられているのが分かる。
遠くに見える柵までが、この庭の広さを物語っていた。
(大丈夫かしら……大抵の草花なら「5」の数字で綺麗に無くなってしまうのだけれど……)
デミトアの心配は、杞憂ではなかった。
実際、大丈夫とは程遠い結果が待っていた。
「……100っと。ほいっ」