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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋人が出て行った

『自分を見つめ直す旅に出ます。

探さないでください。  素史(もとし)


仕事から帰ると、そんな書き置きがリビングダイニングのテーブルにあった。素史の姿はない。ついにこの日がきたか…力が抜けていく。


同棲している恋人が、書き置きを残して出て行った。


“旅”なんて、俺を傷付けないための嘘だろう…素史は優しいから。“探さないでください”の言葉から、もう帰ってくるつもりはないという気持ちが出ている。他に好きな人でもできたか。


まあ、俺なんかじゃな…付き合って四年、同棲三年、よくもった。なんの特徴も、秀でたところもない俺じゃ、いつかはこうなっただろう。今日まで来られたことのほうがびっくりだ。


素史とは大学で出会った。素史が三年、俺が二年のとき。素史のほうがひとつ上だけれど、講義が同じで声をかけられた。「ごめん、ペン貸してくれる?」がきっかけ。それから不思議と仲良くなった。


素史の印象は“自由な人”。今にも翼が生えて空を飛びそう、という雰囲気だった。別に俺はなにかしがらみがあるわけじゃないけれど、ネガティブな自分自身には縛られていたかもしれない。対照的に素史はのびのびしていて眩しく見えた。


好きになるのに時間はかからず、でも告白する勇気なんてない。かっこよくて人を自然に寄せ付ける素史と、地味で目立たない俺。告白したところで振られるのはわかり切っている。それでも、切れ長の明るい茶の瞳に俺が映る度にどきどきしていた。


「もっと一緒にいたいな。付き合おうよ、千温(ちはる)


素史と、素史のお友達と俺とで食事に行った帰り、そう言って手を握られた。からかわれているんだと思ったけれど素史の瞳は真剣で、俺はゆっくり頷いた。


「面倒なのと付き合うことになったなー」


付き合うことは誰にも言わないのかと思ったら、素史はすぐにお友達にさらっと話した。するとみんな口を揃えてそう言う。その意味が俺にはわからなかった。俺が面倒なのかなと思ったけれど、素史のお友達は俺に「なにかあったら相談に乗るから」と言う。ますます謎だった。


でも、付き合うようになると素史は思ったより自由な人ではないと知り、素史のお友達の言葉の意味がわかった。考え込むとどんどん考え込んで食事もしないことがある。俺は気が付くとすぐにそれを止めた。そのときの素史は心細そうな背中をしていたように思う。

初めてその姿に気が付いたとき。


「そんなに自分を追い詰めないで」


恐る恐る抱き締めたら素史は驚いていた。ちょっと偉そうだったかもしれない。でも、そう言ってあげたかったんだ。

素史はなにもないところで自由にしているんじゃなくて、自分で作った柵の中で飛んでいるだけなんだと知った。その姿は繊細で、きらきらとガラス細工のように、俺の目にはもっと輝いて見えた。


素史は隠しごとをしないし俺は単純なので、お互いをよく知るのは早かった。

俺達の距離は、すぐに縮まっていった。


翌年、俺が部屋の契約更新だと言ったら、素史に「だったら一緒に暮らそうよ」と言われた。


一緒にいると心地いいし楽しい。

ふたりで暮らしたらきっともっと人生最高。


そう言われて、迷うことなくオーケーした。素史の人生が最高になったら、そんなに嬉しいことはない。俺はそんな大層な存在じゃないけれど、素史がそう言ってくれるなら…と、ふたりで物件を探して同棲を始めた。


「……俺なんかのどこがよかったんだろう」


素史が大好き。

でも、俺なんかが素史に愛されていていい自信はない。そういうところが俺の悪い癖だと素史によく注意された。「俺なんか」の口癖も。


テーブルの書き置きを見つめて、少し右上がりの癖がある字をそっと指でなぞる。俺なんかが素史のような男をいつまでも繋ぎ止めておけるはずがない。


「…また“なんか”って思っちゃった」


涙が溢れるけれど、流れるままにする。


「俺はまだ、大好きなんだけどなぁ…」


きっといつまでも素史の影を追いかけるんだろうな。

メッセージアプリの素史の名前を削除した。






あたり前だけれど、素史は帰ってこない。仕事が休みの日に少しずつ、素史が置いて行った荷物を片付け始めることにした。

部屋のすべてに素史との思い出が詰まっている。ただの柱だって、素史が考えごとをしていたときに寄りかかっていた場所だったりする。

そういうひとつひとつを思い出していたら、片付けが全然進まない。少し片付けては泣き、少し片付けては泣く。そんな自分が笑えてくる。


「あ、これ…」


素史が俺のために買ってくれたココア。また視界がじわじわしてくる。本当に片付けが進まない…。


まだ素史が好き。好きだから片付ける。

俺にできるのは、素史の残していったものを片付けることだけ。いつまでも残しておいて、見る度にめそめそしていたら素史だって気持ち悪いだろう。


「…そのままだ」


素史の部屋はほとんどそのまま。でも、素史が気に入ってよく着ていた服とか、スポーツバッグがなくなっている。持って行ったんだろう。

どう片付けたらいいんだろうと溜め息が出てしまう。だけど片付けなくちゃ。気持ちに区切りをつけるために。


区切り?

区切りってなんだろう。

忘れる?

忘れるなんてできない。

俺の中に素史を刻み付けるために片付ける。逆説的だけど、それが俺の確かな気持ちなんだろう。


ソファには素史が出て行く朝まで着ていた寝間着がそのまま置いてある。なんとなく手に取って抱き締めると、嗅ぎ慣れた素史のにおいがした。涙が頬を伝っていく。手の甲で涙を拭って、寝間着を畳んで他の衣類と一緒にゴミとしてまとめる。


俺が素史に贈った写真立てもそのままパソコンデスクに飾ってある。入れてあるのは、素史と俺で撮ったふたりの写真。付き合い始めてふたりで初めて過ごした素史の誕生日、なにが欲しいが聞いたときに「ふたりで撮った写真を飾りたい」と素史が写真立てを希望して、ふたりで選んだ。


「これ、置いてったんだ……そうだよな」


素史の心は、もう俺のほうにはない。

ぐっと胸が苦しくなって、また涙が溢れてしまう。ふたりの思い出もゴミ袋に入れた。






休みの度に片付けて、部屋を整理していく。でも心の整理はつくはずがない。

素史が帰ってくることはない。だからある程度の心の整理はしないといけないのに、いつまでも素史を待っている自分が確かにいる。


ひとりのセミダブルベッドは冷たくて、眠りが浅くなった。

同棲を始めるとき、「ベッドはひとつでいいよね」と言ったのは素史。俺のにおいが落ち着くからと、俺の部屋にベッドを置きたいと言ったのも素史。セミダブルなのは、「シングルで小さすぎると千温が落ちないか心配、でもダブルで大きすぎるのは千温と距離があって寂しい」と真剣な表情で理由を言っていた。寂しがりやなところもあった。


「……寂しかったのかな」


俺は素史に寂しい思いをさせていたのかもしれない。お互い時間を作ってそばにいたけれど、それでもやっぱり寂しかったのだろうか。

…わからない。

考えたって仕方ないし、答えが出たって素史は帰ってこない。毎日が苦しくて、孤独と辛さに潰されてしまいそうだった。素史がいなければ、他の誰がいてもだめなんだ。


素史は今頃どうしているだろう。

新しい恋人と仲良くしているかな。


「………寝付けない」


少し風に当たりたくてベランダに出る。欠けた月が雲の中に浮かんでいる。

俺はもう、ひとりぼっち。

ぼんやり空を見上げた。






素史が出て行って一か月半が経った。片付けがかなり進んで部屋がすっきりしてきた。対照的に心の中がどんどんぐちゃぐちゃになっていく。どうしたらいいかわからない。力が抜けて、リビングダイニングの床に座り込んで俯く。


「…もう、だめかもしれない…」


立ち上がり方もわからなくなりそうだ。

カチャ、と玄関の鍵を開ける音がして顔を上げる。ドアが開閉、足音。


「なに…?」


誰…?


「ただいま」


…………。


「…………素史?」


スポーツバッグを床に置きながら、素史が首を傾げる。


「うん。なに、どうしたの?」

「素史こそどうしたの…? 忘れ物?」

「え? てか、なんか部屋すっきりしてない?」


え? え? え?

なに? どういうこと?


混乱する俺の前に素史がしゃがみ、俺の両手を取って引っ張る。その勢いで立ち上がった。立ち上がったのはいいけどまだ疑問符と混乱。


「座り込んで、どうしたの?」

「どうしたって……」

「片付け? 手伝おっか?」


微笑む素史は本当に素史だ。俺の手を握っているのは、確かに実体。幻覚じゃない。


「え? え? どういうこと?」


わけがわからないんだけど。


「出て行ったんじゃないの?」


素史が首を傾げる。


「? 旅に出ますって書いたよね? 旅なら帰ってくるに決まってるじゃん」

「………」


ぽかんとする俺の手を、ぎゅっと握り直す素史。その手の温もりに、この一か月半で固まって閉ざしてしまった心が解けていく。


「千温…俺、千温とずっと一緒にいて、感謝の気持ちを忘れてる自分に気付いた」

「……?」


感謝…? いきなりなに?


「感謝してもらうようなことなんてしてないけど…」

「そういうところ、千温のいいとこで悪いとこ」


苦笑する素史。その表情がすごく優しくて、ああ…素史だ、と思った。


「それで少しの時間、千温と離れて千温の存在の大切さをきちんと理解する必要があると思って旅に出たんだ」

「そんな…まさかあぶないことしてないよね?」

「うん。友達のところ転々として千温の可愛さを自慢して回ってただけ。仕事もちゃんと行ってたよ」

「……探さないでくださいって」


あれは帰ってくるつもりがないってことじゃ…?


「だから、友達のところだから探されたらすぐ見つかっちゃうから。ちゃんとしてからじゃないと帰れないのに、見つかったら意味がない」

「俺、素史のお友達の連絡先なんて知らないよ」

「そうだっけ」


なんて言うか……もう…もう…!


「? 千温?」

「……他に好きな人ができたんじゃないの?」

「俺の好きな人は千温だけだよ?」

「………」


頭の中の整理がつかない。今聞いた話をもう一度脳内で繰り返す。混乱が収まるより先に涙がぼろぼろ零れ落ちた。俺が突然泣き出したことに素史が慌てている様子がぼやけて見える。


「素史のばか! 他に好きな人ができて出て行ったんだとばっかり…」

「え、そんなこと一言も書かなかったよね?」

「………」


はい、書いてありませんでした。俺が勝手に想像して作った話です。

でも…! そう思うに決まってるじゃん! あんな風に書き置きなんて残されたら、そう思っちゃうじゃん!


「だって、あんな書き方されたらそう思うよ!」

「色々文面考えたんだけど、変な書き方すると千温が心配すると思って。だから簡潔にわかりやすく要点のみ」

「……なにそれ」


充分誤解を招く書き方だったよ…。こういうところ、素史らしいって言えば素史らしいんだけど…気付かなかった俺も俺なんだけど…!


「千温以外を好きになんてなれないよ。相変わらず思い込み激しいんだから」


少し強引に抱き寄せられて、素史のにおいを感じる。夢じゃないだろうか。俺が素史の背中に腕を回したら、さらさらと砂のように崩れて消えてしまわないだろうか。怖くて怖くて、でも抱き締めたい。

恐る恐る腕を伸ばして素史を抱き締めるけれど、消えなかった。確かに素史が帰ってきた。


「……素史のばかぁ…」


腕の中でわんわん泣く俺を、よしよしと宥めてくれるのが優しくて嬉しくて。…少し腹も立って。


「そういうわけのわからないことは、俺のそばでやってよ! 素史こそ、考え込むと考えすぎておかしなこと思い付くんだから…!」


素史に、ばかばかと繰り返しぶつける。本当は、今こうやって抱き締めてくれている、それだけでいいはずなのに。


「うん、ごめん…。でも俺、年上なのに千温のそばにいると甘えちゃうんだ。だからさ…」

「素史のばかぁ…!」

「ごめん…。今日の千温はいつも以上に可愛いね」

「なんで嬉しそうなの! 反省してよ…ばかぁ…!」


素史にぎゅうっと抱きついて涙を流し、背中を軽くとんとんと叩いてくれるリズムに瞼を下ろす。

素史…素史…素史…!!


「千温、いつも本当にありがとう。俺なんかのそばにいてくれて、愛してくれて、全部全部ありがとう」


優しい「ありがとう」に顔を上げると、少し照れたような素史の表情に胸が高鳴る。前髪をよけて、おでこに優しくキスをされて心が蕩けてしまう。


「……素史は“なんか”じゃない。俺は“なんか”だけど」

「千温は自己評価が低すぎ。すごくすごくかっこいい男なのに。俺が生きる意味も目標も千温なんだから」


かっこいい…かっこいい? 俺が?


「………素史、鏡見たことある?」

「持ってこようか。世界で一番かっこいい千温が映るよ」

「いい。絶対映らない」


俺なんかがかっこいいわけない。どうかしちゃったんじゃないの、素史。…いや、素史はいつもこんな感じか。

涙が収まって、ぐずぐずくらいになってきた俺の髪を素史が撫でてくれる。この優しい手の感覚も恋しかった。


「……見た目以外のところもだよ」

「……?」


どういう意味?と首を傾げる俺に、素史が前髪をよけておでこにまたキスをくれた。くすぐったい。俺が少し笑うと、素史が安心したように目を細めた。


「千温の好きな、駅前の洋食屋さんのオムライス、テイクアウトで買ってきたんだ。温め直して食べよう?」


俺が頷くと、素史がふわっと微笑んだ。もう一度髪を撫でてくれる。


「待ってて。着替えてくる」


部屋に行く素史の背中を見て、ほっと力が抜けた。


「……なんなんだよ、もう…」


思わず笑いがこみ上げた。本当にもう…ばかなんだから。


「えっ!?」

「!?」


突然、素史の大きな声が聞こえた。なに!?と思って素史の部屋に行くと、素史が部屋の入り口で突っ立っている。


「素史?」

「千温…」

「どうしたの?」


素史が俺のほうを見て、部屋の中をもう一度見る。それからまた俺を見て。


「部屋の中、なんもないんだけど…」

「あ…」






「本当にごめんなさい…」

「いや、書き置きだけで出て行った俺が完全に悪かったから」


休みの日にふたりで買い物。素史のものはほとんど捨ててしまっていたから、買い直し。俺が買うと言ったけれど、素史は払わせてくれない。

あの後、部屋を一か月半かけて片付けてしまったことを話すと、素史は怒りはしなかったけど、固まるほどびっくりして、それからお腹を抱えて笑っていた。メッセージアプリの連絡先を削除してしまったことには、驚いた後に「千温も反省点があるね」と言っていた。そのとおりだ。もちろん、今はちゃんともう一度追加されている。


「それに、結果的に千温とデートできて嬉しい」

「……デートなんていくらでもするのに」

「へえ…確かに聞いたから」


自分で言ったことだけど、ちょっと恥ずかしい。でも、素史の隣を歩くのが俺なんかでいいのかな…、と考えていたら、ぎゅっと手を握られてすぐ離された。それが「いいんだよ」と言われたみたいで嬉しかった。付き合って何年経っても同じことを考えてしまう成長のない俺の心を、いつでも導いてくれる優しい光。


「……ただ、写真立てまで捨てられてたのはショックだった」

「う…ごめんなさい」


素史が悲しそうに瞳を揺らすので、胸が痛くなる。そうだよな、代わりの利かないものだ。残しておけばよかっただろうか。

……いや、あのときの俺はできなかった。片付けて捨てていくことで、傷として心に素史を刻んでいたから。


「お詫びになんでもします……」

「…なんでも?」


悲しそうな瞳が、急に元気な色になった。


「……できることなら」

「じゃあ、今夜は千温に頑張ってもらおうかな」

「……………できることなら」


本当に、できることなら、だけど。でも素史はご機嫌でにこにこしている。さっきまでも機嫌がよかったけれど、さっきまでが雲の上なら、今は宇宙くらいまでいってそう。


「……寂しい思いさせてごめんね」


呟くように、聞こえなかったらそれでもいいや、と思って口に出す。これはたぶん、俺自身が一番悔いていること。


「なんのこと?」


……しっかり聞こえてた。


「俺の反省」


素史の手を握ると驚かれた。俺が自分から手を握るなんて、恥ずかしがってほとんどしないから。


「俺、寂しい思いなんてしてないよ? だって、いつでも千温がいる。寂しいわけないじゃん」

「素史…」


心臓がぎゅっとなった。なんだか、もっと好きになった。どこまで好きになるんだろう。少し怖い。


「……でも、今後は思い込んでひとりで突っ走るのはなるべくやめような。俺も千温も」

「うん…今回はさすがに猛省した」

「俺もかなり」


俺を見つめる切れ長の明るい茶の瞳が細められる。その優しい表情で心が覆われて、なんとなく、写真立てが欲しいな、と思った。泣きながら捨ててしまったふたりの思い出を、新しくしたい。


「素史、写真立ても買いに行こう」

「いいね。またふたりで選ぼうか」

「うん」


それで、ふたりの部屋に持って帰ろう。

また素史の部屋に飾ってもいいし、別の場所に飾ってもいい。いくつか買って、何か所かに飾るのもいいかもしれない。


素史と俺が過ごしていく日々を、切り取って。




END

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