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やくそく


「旦那さまの、旦那さまの馬鹿―――」


 部屋の寝台に仰向けになって、自分の腕で顔を隠しながらシャノンはつぶやく。


 流れる涙はとまらない。

 あとからあとから、シャノンの頬に引き寄せられるように溢れ出ていく。


 まるで自分を守るみたいに、勝手に思い浮かんだ顔に、胸が張り裂けそうになる。


「―――セス」


 一度、呟いてしまうと、もう抑えが聞かなかった。

 草も木も花も、この雨すらも、今シャノンを取り囲むすべてが彼を思い出す材料のようで。


「セス、セス、セス―――」


 ―――会いに来てよ。


 わたしが泣いてたら、来てくれるんじゃなかったの。

 一番に駆け付けて、抱きしめてくれるんじゃなかったの。


「どうして―――」


 セスに会いたい。

 抱きしめたい。頬ずりをしたい。


 セスの腕の中で泣きわめきたい。


 彼ならきっと、許してくれる。

 どこまでも子供っぽくて、どうしようもないシャノンのことも。


 ―――そんなに、故郷の男が恋しいか


(恋しい。恋しい。―――セスが、恋しい)


 触れたくてたまらない。

 それは兄を慕う妹の感情なんかじゃなく、おそらくは―――男を求める一人の女として。


(本当に……?)


 思い出の中のセスの姿がだんだんと大人になっていく。

 少年じゃないセスの顔は、あまりよく思い描けない。


 でもきっと。


 背たけが伸びて、声は少し低くなって。

 昔とは少し違う、男の人のにおいがする。


 あの赤い髪に触りたい。彼の黄水晶の瞳に映るほど近くに行きたい。

 気持ちよくなるほどの、甘ったるいキスをしたい。


 ―――シャノン。


「―――っ!」


 記憶の中のセスの姿は、いつの間にか旦那さまに重なって見えた。


 あのひとの、熱のこもった声が、腕が。

 うれしいと、思った。

 だから、あんなにも拒絶した。


(わたしが恋しく思うのは、本当に、セス……? それとも―――)


 ―――名前を、呼ばないでください。


 もう一度呼ばれてしまえば、重なってしまうと思った。

 元には戻れないほどに、あのひとを求めてしまうと分かっていた。


 それはきっと、セスの面影を消せないからだけじゃなくて。


(―――あんなの、ただの八つ当たりだ)


 シャノンはずるくて、こんなにも卑怯。


 セスのことが好きなはずで。

 旦那さまへの想いは、かりそめのはずで。


 なのにどうして。


「どうして、旦那さまのめんを―――思い出すの」


 シャノンがそう呟いたときだった。

 こんこんと、窓を叩く音がして、シャノンはきつく瞑っていた目を開けた。


 その音は、シャノンがしばらく無視をしている間もしつこく聞こえてくる。


「―――っ! もうっ! いい加減に―――」


 ぐちゃぐちゃな気持ちのままで窓に視線をやったシャノンは、目の前の光景を見て呆気にとられて固まった。


「だんな、さま……?」


 そこに居たのは、御上だった。

 シャノンの誕生日にしか会いに来ないはずの。

さきほど八つ当たりをして、シャノンが傷つけてしまったはずの。


 シャノンは慌てて窓を開けた。


「なん、で……」


 シャノンの問いには答えず、窓からシャノンの部屋に入った御上は、シャノンをぎゅうと抱きしめた。

 先ほどの強引さはどこにもない。泣いているシャノンを慰める、親のような優しい手つきだった。


「なんで、って。シャノンが、俺を呼んだんだろう」

「え……?」


 旦那さまの言葉に、シャノンは目をみはった。


「『一番に駆け付けて、抱きしめてやる』。そう言っただろ」

「だってそれは……」


 それは、セスとした約束だ。しかし、今シャノンの目の前に居るのは、御上だ。


「……旦那さまが、セスなの……?」


 シャノンの肩の後ろで、旦那さまが話し出した。


「ごめん。俺は……勘違いしてたんだ。シャノンが俺を好きでいてくれているはずだって、勝手に思い込んで、本当に好いた男から、シャノンを引き離した」

「え……?」

「だから家に返してやるつもりで。聞き分けよく引き下がるつもりで。結局それができなくて、結局傷つけて……ごめん。ごめんな」


 彼は話しながら泣いているようだった。

 シャノンは御上から身を離し、そのいつもの紙の面と向き合う。

 そして、その紙の面を外した。


 そこに在るのは、シャノンがよく知る、黄水晶シトリンの瞳だ。面影は昔のまま、今は随分と寂しげにシャノンを見ていた。


「わたし、自分が変になっちゃったかと思ったの」


 シャノンを見る黄水晶の瞳に言い聞かせるように、シャノンは話し始めた。

 真っ赤になっているだろう自分の顔も、潤んでいるだろう自分の目のことも、一度忘れて。


「セスが好きだったはずなのに、旦那さまに抱きしめられたのが嬉しいと思った。……セスを思い出すと、旦那さまの姿が重なって自分勝手に苦しくなった」

「ちょっと待ってくれ、シャノンが好きだったのは……」

「聞いて」

「あ、ああ」


 旦那さまの頬を両手で包んで、シャノンはしっかりと目線を合わせる。

 もうこれ以上、すれ違うなんていやだ。

 このひとを苛ませるのはもう、いやだ。


「わたし、セスが好きだったはずなの。セスのお嫁さんになりたいって、本気で思ってたの。だから、旦那さまにセスを重ねる自分は、なんて嫌な女だろうと、思ったの」


 けれど、シャノンを奮い立たせた勇気は少しずつ萎んでいく。

 自分の想いを口にするほど、自分の身勝手さに吐き気がした。すべてを話せばきっと、この人セスはシャノンの元から去ってしまうのだろう。

 それをわかりながら、それでもシャノンがこの気持ちを口にするのは半ば意地だった。


「セスを好きで、セスの元に返してもらう約束をしておいて、わたしは旦那さまを五年も縛り付けている。旦那さまの優しさも知らないで、のうのうと今日まで守られて……! だから―――だから、旦那さまが他に妃をもらえば、罪悪感がなくなると思った……!」


 そのくせ。


「そのくせに! わたし、旦那さまに抱きしめられて、思ったの。『うれしい』って。こうも思った。『だけどこれは、フリなんだ』って。フリであることをとても嫌だと、そう思ったの。わたしのことなのに、わたしが一番わけわからないの。こんなに醜くて、身勝手で、不誠実で……なのに、わたし、わたし……」


 溢れる涙は止まらなかった。

 シャノンの独白を、旦那さまはただ黙って聞いていた。


「―――……旦那さまが、すきなの」


 シャノンがそう口にした瞬間、後頭部が引き寄せられた。

 気づくと、目の前には旦那さまの顔があって、シャノンの唇は、その熱い唇と触れ合っていた。


 キスの合間に、ふっと熱い吐息が漏れる。


「だん、なさま……? なん、で……」


 シャノンが呟くと、彼は少し不機嫌そうに言った。


「セス、と呼んでくれないか」

「え……?」

「はやく」

「せ、す……」


 シャノンが言われたとおりにすると、旦那さまは片手で顔を覆って俯き、呟いた。


「―――困ったな」


 なにが、『困った』んだろう。


「申し訳、ありません」


 彼を『心から愛しているように振舞う』。

 昔の自分はどうやっていたんだったか。


 シャノンはもう思い出せない。

 今はきっと、どう足掻いたところで愛する『フリ』ではなくなってしまう。


「なぜ謝る」

「困らせているのは、私でしょう」


 シャノンの言葉に、セスは少し思案するような顔をして、それから頷いた。


「―――そうだな」


 傷つくな。

 この肯定に傷つく資格は、シャノンにない。


 彼の安堵をなじる権利も。

 年に一度しか姿を見せない薄情さを罵れるほどの寵愛も。

 シャノンを送り返し、新しい妃を娶ることを、縋って止められるような幼さも―――ない。


「―――君を離せそうになくて、困った―――」


 落ちてきた言葉に目を瞬く。


 ご冗談をと流すにはあまりにも切実さを含み過ぎたその声音は、シャノンを混乱させるには十分だった。

 シャノンの肩に、旦那さまの顔がうずまる。

 赤い髪が、さらりと肌に触れてくすぐったい。


「あ、の。旦那さま、何を―――」

「セスだ、シャノン」

「セス……?」


 シャノンの背に回された手に、ふいに力が籠る。


「シャノン、俺が君に『愛しているフリ』をと頼んだのは、俺の未練がましさのせいだ」

「え……?」

「身勝手なのは、俺の方なんだ」


 セスはそう言って、詫びるようにシャノンの肩に頭を乗せ、手首を握った。


「セスは、私が言った『故郷のひと』を『セス以外の誰か』だと……?」

「……そうだ。君が、故郷の男を思っていると聞いて、少しは俺のことも思い出せばいいとあんな条件を出した。だから謝らなくちゃいけないのは、俺なんだ」


 シャノンの耳に届いた、弱弱しい声音は、昔の彼のものよりも少し低い。

 背格好も、声も、香りも、変わるわけだ。セスもシャノンも、体は成長していくのだから。

 シャノンは耳の後ろでセスの声を聞き、彼からそっと身を離す。

 そして、涙が伝うセスの頬に、そっと口づけた。

 驚きで涙も止まったのか、セスは呆然とシャノンを見ている。

 シャノンはその黄水晶の目を真っ向から見返した。


(ああ、でも、もしそれが真だというなら……)


 シャノンは震える手にぎゅっと力を込めて尋ねる。


「それじゃあ、旦那さまは―――セスは私を、好きだと思ってくれていたの?」


 セスは頬を赤くして頷いた。シャノンはなおも問う。


「それじゃあ、わたし―――わたしも……」


 シャノンの声は涙声になっていた。

 顔は涙でぐしゃぐしゃにちがいない。

 だけど、問わねばならない。

 これが一番、シャノンにとって重要な問いであるのだから。


「旦那さまをすきでも、いいの―――?」


 ありったけの勇気を振り絞ったシャノンに、その返答の代わりに贈られたのは、甘くて優しい、二度目の口づけだった。



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