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よねんめ2


「シャノン!」


 鬱蒼とした森を抜け、田が広がる平野を一望できる見晴らしの良い空間に、自分の名を呼ぶ声がこだました。


「え?」


 この社に自分の名を呼ぶ者はいない。

 シャノンの呼び方は二通り。

『聖女様』か、ルンダが呼ぶ『ひめさま』か。


 数年ぶりに呼ばれた自分の名前にシャノンの心はほんの少しだけ浮き立つ。


 豊穣の祭事で舞う舞を練習していた。

 振り向くと、そのために羽織っていた羽衣が、ふわりと雨を巻き込んだ。


「だんな……さま……?」

「シャノン」


 叱られるだろうか。

 こんなところで何をしているんだとか、こんな雨の中では濡れてしまうとか。


 けれどシャノンの想像とは裏腹に、旦那さまの口から出たのは、たった一言だけだった。


「―――探した」


 今日の彼の様子は、シャノンの知るものと違った。


 余裕なさげに、一歩一歩、近づいて。

 彼の伸ばした手が、シャノンの指先に、つと当たる。


 その手の熱さに慄いて身を震わせると、旦那さまの手がシャノンの手首を掴んで、そのまま引き寄せられる。


「え」


 以前に会ったときよりも、また少し高くなった旦那さまの背。

旦那さまはシャノンの頭の後ろに手をやり、そのまま抱き込むように、シャノンの体を彼の体に隙間なくくっつける。


 自分の顔に一気に熱が集まったのがわかる。


 シャノンは次の誕生日で十五だ。

 もう来た頃のような子供ではない。


 以前ほど無邪気に抱擁を返すことなどできず、おずおずと身を離そうとしたが、旦那さまの力は強く、がっちりと逃げ場を塞がれて、シャノンにはどうすることもできない。


「なんで―――言った……?」

「へ?」


 ふいに落とされた呟きは雨に紛れて聞こえず、シャノンは腕の中で旦那さまを見上げた。

 彼の、紙の面の下で、ほんの少しだけ見えた口元が言葉を紡いでいる。


「なんで、『他に妃をもらってもいい』だなんて、言った」


 二度目を口にする彼の、低い声音と強い口調に、シャノンは固まった。

 こんな旦那さまを見るのは初めてだった。


 なんでシャノンの名を呼んだのかとか、言ったことを知ってるのはどうしてかとか、ここをどうやって見つけたのかとか。

 シャノンが聞こうと思っていたことは軒並み頭の中から追い出される。


「え、と……」

「約束していたはずだ。君がここに居る間は『俺を心から愛しているように振舞う』と」


(―――ああ、そうだった。これは『フリ』なんだった)


 約束を違えているつもりはなかった。

 ただ、シャノンは旦那さまの負担になりたくなかった。


「そんなに、俺が嫌だったか」


 『聖女』という立場の自分が、万が一でも旦那さまに付け入る隙になるのが嫌だった。


「そんなに」


 それだけだったのに。


「―――そんなに、故郷の男が恋しいか」


 その問いに、ぷつんとシャノンの頭の中で何かが切れた音がした。


「―――っ!」


 そんな風に言われるほどのことを、したんだろうか。

 この、いつも寂しそうな一柱ひとりひとを守りたいと思って口にしただけのひとりごとに、そうまで言われなければならないほどの何かが。


 シャノンは身をよじって抱擁から抜けだす。

 言葉に言い表せない苛立ちがシャノンを襲う。


 よりにもよって


「旦那さまが、それをおっしゃるのですか」


 どうしてそうなる、と叫びたいのをこらえて、シャノンは御上を睨んだ。

 『使わなくていい』と言われていた敬語が出たのもかまわず。


 紙一枚のくせに、この雨の中、ひとつも濡れた様子のないそのとぼけた面を引き剥がしてやりたかった。


「私を、その『故郷の男』の元から引き離したのは、他でもない旦那さまでしょう」


 目尻に涙が溜まっていくのがわかる。


 ―――大丈夫。

 今は雨が降っているのだから、どうせ気づかれない。


「シャノ―――」

「名前を!」


 言いかけた旦那さまの声に被せるようにしてシャノンは口を開く。


「名前を―――呼ばないでください」


 今のシャノンにはこれが精いっぱいだった。

 頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。


 なにがどうなってこうなったのか、少しも―――少しも、わからない。


「そう呼んでいいのは……そう、呼んでいいのは―――!」


 ―――セスだけ。


 混乱していた。

 旦那さまに名前を呼ばれると、セスに名を呼ばれているみたいで。


 セスよりも、ワントーン低い声。

 セスよりも、ずっと大きな背。


 なのに、抱きしめ方も、名の呼び方も、なぞったみたいにまるで同じ。

 今目の前に居るのがセスなのか旦那さまなのかわからなくなる。


(旦那さまに、決まってる―――)


 だったらなぜ、自分は今こんなに怒っているんだろう。

 一体、何に対して怒っているんだろう。


 どうして『故郷の男が恋しいか』と問われたことが、こんなに嫌なんだろう。


「―――部屋に……戻ります」


 これ以上ここに居れば、もっとひどいことを言ってしまいそうだった。


 自分の思考すらままならない女の、ただの自分勝手な言い分を、このどこまでも優しいひとに赤裸々にぶちまけてどうしようというのか。


 もう手遅れかもしれなくても、それだけは。

―――絶対にしてはいけないと分かっていた。


***


 小走りに去っていく彼女の背を、しばらくの間呆然と、セスはみつめていた。


 ―――そう、呼んでいいのは……


 その言葉に続くのはおそらく、シャノンの想い人の名前。

 セスではない、誰かの名前。


「―――っくそ!」


 自分の口から出た声の余裕のなさに嫌気がさす。

 握った拳に爪が食い込んで痛い。


 湿っていくくつも衣も、どうでもよかった。


 ただ―――シャノンの泣いた顔が、頭から離れない。


 なんで、もっと優しくしてやれない。

 なんで、もっと大事にしてやれない。


「なんで、俺は……」


 泣いてた。シャノンは。

 涙を雨に隠して。


「今のは―――セスが悪いと思うのだ」


 ふよよんと、セスのそばまで寄って来たルンダがぽつりと言う。


「……わかってる」


 触れるべきじゃなかった。

 あんなことを言うつもりじゃなかった。


 ぜんぶ、シャノンの言うとおりだ。

 彼女を故郷から引き離したのは他でもなく―――。


「わかって、いる―――」

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