さんねんめ(だんなさま視点)
(―――今日も、大丈夫だった)
昨年同様、シャノンにおめでとうを言って部屋を出てきた旦那さま―――セス・グリーンシールズは、その胸の内に燻る熱を冷ますように、長いため息をついた。
今年もちゃんと、彼女のそばを離れられた。
彼女に会うときは、決して気を緩めてはならない。
少しでも気を緩めれば、セスの想いは彼女にダダ洩れになってしまうだろうから。
(お嫁さま―――シャノンには、他に好きなやつが居るんだから)
最初にあった日、「故郷に想い人が居たと聞いた」と言ったセスに、シャノンは言葉を失っていた。
それはセスにとって、ほとんど肯定のようなものだった。
その相手は、ジャンか? それともスタンか?
あの頃―――シャノンの故郷に頻繁に顔を見せに言っていた頃、彼女が向けてくれる無条件の親愛にかまけて、交友関係すら真剣に探ろうともしなかった。
彼女が本当は、誰か一人をそんなにも思っていたなんて、気づこうとすらしなかった。
自分に向ける親愛が、兄に向けるようなものであったことを、信じたくなかった。
姿を見せてあげられなくても、きっとそばまで来れば、セスだと気づいてくれるはずだと思っていた。
この結婚を、喜んでくれるとも。
(図太くて、傲慢で、幸せなやつの思考だったな―――二年前の俺は)
ふたを開けてみればどうだ。
シャノンは気づくどころか、絶望でもしているような顔をして。
セスの声で話しかけても、無表情のままでこちらを向いた彼女の顔に以前の笑顔はどこにもなかった。
間違えたのだ、ということは、すぐにわかった。
どう挽回すればいいのかは、わからなかったけれど。
(せめて、本当に好きなやつの元に戻してやることくらい―――)
それくらいは、責任をもって然るべきだ。
だから、五年経ったら家に帰すと、約束した。
なのに、あまりにも即答でシャノンが承知の返事を返すものだから、つい、未練が出た。
(―――「私を、心から愛しているように、振舞ってほしい」とか。諦めが悪すぎるだろう、俺)
勘違い、してほしかった。
遠く離れた故郷に居るだろう、ジャンよりも、スタンよりも、近くにいる自分に恋をしていると―――そう、勘違いしてくれないか、と。
(そんな都合よく行くわけねー)
催眠術じゃないんだから、と自分に突っ込んだところで、シャノンを好きなセスの気持ちが簡単に消えてくれるわけもなく。
これ以上好きにならないようにと、通いつめたくなる足を何とか踏み留めて。
年に一度、彼女の誕生日だけはと決めた、たった一度の逢瀬のたびに、知らない顔を覗かせる彼女への想いは膨らむばかりだ。
(『俺が恋しかったか』とか―――諦めるために訊いたのに)
「はい」とシャノンが言ったりするから。
不用意に、笑顔なんて見せたりするから。
まだ少しくらいは、期待してもいいんじゃないかと。
そんな甘い考えを抱いては、セスがシャノンに頼んだからそうしてくれているだけだと思い出す。
十四、十五、十六、とセスは指を追って数える。
「あと、三回か―――」
三回目―――十六のシャノンと会うのは、別れの日だけ。
セスがシャノンに会えるのは、あと、たったの三回だけ。
「何度数えても、三回だな」
何度数えても―――三回だった。
***
外で、シャノンを見かけた。
湯浴みを終えたばかりなのか、桜の花びらのような頬が赤らんでいる。
長い髪は、濡れて結わえられていた。
ゆるく纏められただけのそれがほどけそうなのもかまわず、彼女は建物の間の、細く黒々とした隙間を覗き込んでいる。
まさにその髪が零れ落ち、地面に落ちそうになったその瞬間、セスは咄嗟に彼女に駆け寄り、彼女の黒紅の髪を受け止めていた。
「へっ!?」
セスが背後に立ったのが、気配でわかったのだろう。
彼女はびくりと身を竦ませた。
セスはセスで、久々に触れるシャノンの髪の柔らかさに驚いていた。
彼女の髪から、自分と同じ香りがすることにも。
身をこわばらせる自分とシャノン。その両方を落ち着かせようとセスは口を開く。
「ああ、すまない。君の髪が地面に触れてしまいそうだったから」
声で、セスだと気づいたのだろう。
後ろを振り返ろうとしていたシャノンは、セスが口を開くと、こちらに向けようとしていた顔を大人しく戻す。
シャノンが来てから手放さないようにしていた紙の面を今は付けていなかったので、そのことにセスは安堵の息を漏らした。
「猫でも居たのか?」
「う、はい。縞模様の子で―――撫でてみたくて」
故郷に居た時も、彼女は動物を可愛がっていたことを思い出す。
猫だけじゃない。犬、鳥、うさぎ、果てはイノシシなんかにも、シャノンはよく囲まれていた。
シャノンが彼女の両親に頼み込んで家で世話をしていた、茶トラの猫がいた。
さっきの子も縞模様だと言っていた。その子と重なったのだろうか。
なつかしさに、セスはクスリと微笑んで髪にかろうじて引っかかっている簪を抜く。
「髪がほどけてる。待ってて。今、結わえてあげるから」
そっと、絡まってひっぱることがないように、少し湿った彼女の髪を梳く。
シャノンはセスの手を振り払おうともせずに、大人しく纏め終わるのを待っていた。
耳にかかっていた髪を取ろうと指を触れる。
「―――っ!」
びくりと一瞬肩を跳ねさせたシャノンに驚いて、セスは思わず触れていた手を放しそうになった。
それから、彼女の耳の、熱と色に―――浮かれそうになる。
(ジャンじゃなくて、スタンでもなくて―――)
バレないように、そっと、髪の先に口づける。
もしも髪に感覚があったなら、セスの想いなんて、とっくに伝わってしまいそうなほどに込めて。
(―――俺を選べよ、シャノン)
彼女の髪を彩るのは、今日も赤い花の髪飾り。
それがセスの色だってことを、シャノンは分かってそうしてるのだろうか。
いつ見かけても、君がその色を身に着けていることが、どれほどセスの想いをかき乱しているのかなんて、シャノンは知らない。
「あ、の……だんな、さま―――?」
シャノンの声に我に返った。
彼女は湯浴みの後に祭事がある。
この時刻なら、毎日行われる宵の祭事が近い。
まだセスが十二だった頃、九つだったシャノンが気に入っていた髪型に結ってやる。
少しだけ背伸びしたシャノンが、大人っぽいからとよくせがんだ髪のまとめ方。
あまりに何度も頼まれるから、すっかりセスが覚えてしまったそれは、四年経った今でも苦も無く結わえることができた。
「はい、できた。待たせたね」
「―――ううん」
終わりだという合図も込めて、ぽんぽんとシャノンの髪を撫でる。
「あり、がとう」
敬語じゃなくていいとセスが言ったから、シャノンはできる限りそうして話してくれる。
でも、御上でない、セスに向けるような気安さや安心はない。
「すまないが、もう少しだけ振り向くのを待ってくれ。十数えたら目を開けてもいいよ」
セスは今、紙の面をしていない。
顔を見られて、もしセスだと分かった上で、それでも家に帰ることを望まれるくらいなら。
何も知らせずにできる限り一緒に居たいと願うほどには、セスは臆病者だった。
「また、春待月の二日に」
今は冬中月。
シャノンが居なくなるまで、残り三回、彼女の誕生日がある。
この『また』はあると信じたい。
その時には、何を贈ろう。
最近好んで習っているという筝はどうだろう。聖女の舞に使う、羽衣も一緒に添えるのはどうか。
熱心に書の読み書きをしているというから、筆や硯を贈るのも悪くないかもしれない。
そんなことを考えながら歩く長い廊下は、なぜかいつもより、早く歩き終えてしまうのだった。
***
セスがその名を呼んだのは、シャノンの無事を確認するためだった。
「ルンダ」
「はいなのだ……ひめさまから目を離して、ごめんなのだ……」
セスが呼ぶと、ふわんふわんと近寄ってくるルンダ。
その正体はケサランパサランだ。
シャノンを近くで見守ってもらっている。
謝りながらこちらに来たことに驚いて、セスは目を瞬いた。
「かまわない。シャノンの覗き込んでいた隙間が入り口になっていたから、それを塞ごうとしてたんだろ」
「そうなのだ……あの隙間は、『常世』とつながっていたのだ」
『常世』というのは神々の世界だ。
セスが神の会合に行くときに開くように、その入り口も神が開こうと思わなければ生まれない。
だが、時折、意図せずその入り口が開くことがある。
現世の出来事で例えるなら、住所を間違えて届いてしまった文のように、それは現れる。
シャノンは昔から、それを引き寄せやすい性質をしていた。
おそらく、セスと一緒にいる時間が長かったから、神に近しい存在を引き寄せやすいのだ。
その入り口から常世へ迷い込んでしまえば、おそらく無事で戻っては来られない。
遠く離れてしまえばそうはいかないだろうが、近くに居れば、すぐに対処できる。
妃としてでなく、聖女として呼び立てたのはそういう理由からだった。
聖女は一応、神であるセスの嫁という立ち位置であるが、幼い頃に抜擢されたり、役目から解放される十六までは清い体でなくてはいけなかったりすることを理由に、婚約を白紙に戻して故郷に返すというようなことが可能であった。
セスはシャノンを娶るつもりであったから、聖女としての出仕は半分保険のようなものだったのだが、結果として、それが功を奏した形になった。
シャノンが大きくなって、神々の世界を遠いものとして捉えるようになれば、シャノンの身の回りに入り口が開くことは極端に少なくなるはずだ。
それくらいの頻度なら、己で身を守ることも、伴侶となる者の力で危険を避けることも十分できるだろう。
その年ならまだ、セス自身がギリギリ、シャノンへの想いを断ち切れるだろうという打算もあった。
「今回は、ルンダの『幸運』のお手柄だな」
「そうなのだ?」
「ああ」
セスがシャノンを見つけることができたのはおそらく、ルンダがつけていた加護のおかげだった。
ルンダのおかげで、ルンダ本体が傍に居るときも、そうでないときも、シャノンは少しだけ幸運になっている。
「これからも、シャノンのそばで見守ってやってくれ」
「セスは、傍に居るのがルンダでいいのだ? 本当は―――」
―――セスが、傍に居たいのではないのか。
セスはその問いを微笑みで制した。
ルンダはほんの少ししょんぼりとして、ふさふさの毛をしゅんとさせる。
「俺がシャノンの傍に居たら、きっと―――いや、間違いなく、離れるのが惜しくなる。シャノンは、故郷に好きなやつがいる。スック大臣が言っていただろう」
「でもなのだ! スックは自分の娘をセスにあてがいたいだけなのだ!」
スックがシャノンの想い人の話をセスに持ち出してきたことを訝しく思わなかったわけじゃない。
けれど、スックの娘を嫁にしないことと、シャノンを好きな人のもとに返さず離さないままでいることはイコールじゃないこともまたわかっていた。
スックの思惑に乗らないことは、セス自身で対処できる問題なのだから。
「本人にも確認を取った。十六になったら、きちんと手放してやらなくちゃいけない」
もう何度目になるかもわからないルンダへの説明は、半分自分に言い聞かせるためでもあった。
今の幸せに勘違いしそうになる度に、己の心に冷や水をかけるように。
「でもシャノンは―――」
諦め悪く口を開くルンダを嗜めるように視線を送る。
一瞬だけ口を噤んだルンダは、しかし珍しくセスの視線に抵抗して続きを喋った。
「でもシャノンは……! セスが来なくて寂しいって、泣いてたのだ!」
「―――え?」
予想していなかった反論に、セスの思考が一瞬停止する。
でも、すぐに思い当たる。
「それは、違うんだ。ルンダ。それはただ……」
(シャノンが泣いていたのは、故郷に居る好きなやつのことを想っていたからだろう。そう言ってくれたのはきっと―――俺との約束を守って、そういうウソをついてくれただけで)
これは、彼女がいる間はその心を自分に向けてほしいと欲をかいた、罰なのだろうか。
自分は曲がりなりにも神ではなかったのか。
―――たった一人の、女の子の気持ちを汲むことすら、ままならないのに。