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にねんめ


 二年もいれば、宮に愛着もわいてくるというものだ。

 シャノンは、花嫁修業で磨いた刺繍の腕を、もっぱら部屋の飾りつけに使うようになった。


 本当は、上手になった刺繍を、旦那さまに褒めてもらうつもりだった。

 そのために―――彼のためにわざわざ、ハンカチなんて、こしらえて。


 あの日―――旦那さまが初めてシャノンの元を訪れた、あの誕生日の夜。


 彼に触れられた箇所から、彼の存在がじんわりと熱を持ってシャノンの中に刻み込まれたようだった。


 切なげに『姫様』なんて、自分を呼ぶから。

 一瞬、勘違いしそうになってしまった。


(―――だいじょうぶ。わかってる。わたしが好きなのはセスで、旦那さまじゃない。旦那さまも、私のことが好きなわけではないわ)


 確認するみたいに、刺繍をしながら何度も思い出す。

 その度に、あの熱が戻ってくるようで、必死に、塗りつぶすみたいに、セスのことを思い出す。


 セスの腕、匂い、声。

 妹のような存在として慈しまれてきた、シャノンへと向けられたものの、すべてを。


 でも、変なのだ。


 最近、セスを思い出せば出すほど、浮かぶのは、旦那さまのことばかり。

 今日も、旦那さまは訪れない。

 シャノンを抱きしめには来ない。


(あ、れ―――?)


 そこではたと思い出す。


 セスは、シャノンのことをどう思っていたんだろう。

 きっとそのすべては、女としてのシャノンではなく、子どもに向ける親愛として贈られたものだったはずで。

 シャノンがせがむから、セスは、シャノンを抱きしめてくれていたのかもしれなくて。


 もしもそれが、色気溢れる大人の女性相手の抱擁であったら、セスは一体どうしただろう。

 恥ずかしげに顔を赤らめたり、したんじゃないだろうか。


 どうしてそれを、御上あのひとの手の熱さで、思い知らされるんだろう。


「―――ひめさま、泣いてるのだ?」


 ルンダに言われて、気がつく。

 必死で刺繍を布に、水滴が濃くシミを作る。


「ち、違うの! これ、は。―――これは、旦那さまが、なかなか姿をお見せにならないから、か、悲しくて」


 思ったよりも、もっともそうな内容の嘘を言えて、ほっとしたのもつかの間。

 自分で言っていて、嘘か本当か、わからなくなる。


(合ってる。セスは、旦那さまじゃない。旦那さまが来ないことは、セスに嫌われたのとイコールなわけじゃない)


 どうしてそんな大前提を確認しているのか、シャノンは自分でもわかっていない。


「あれ―――? あれあれ―――?」


 シャノンには、全然、全然わからない。

 シャノンが想うべきだったのは、セスだったのか、旦那さまだったのか。

 いつから、こんなにわからなくなっているのかも。


 わからぬままに、ただ刺繍を刺す。


 そうしていれば、わからぬままに暴れるこの心のことだって、考えずに済むから。

 向き合わずに済むから。


 ―――誰に、いつ渡すためのものかもわからぬまま、きっと部屋の飾りになるだけの刺繍を、シャノンは刺している。


***


「旦那さまが来たよ」


 シャノンがここに来てから、またひとつ年が巡るころ。


冒頭に、よ! くらいの気安い挨拶は付きそうなほどに楽しげな様子で、御上はやってきた。


 その頃には、あの狂いそうなほどの出どころ不明の不安とはうまく付き合えるようになってきていた。


 そもそも、数えるほどしか会ったことがない旦那さまと、数えきれないほど会ったセスとを重ね合わせること自体、間違っていたのだ。

 次に会ったときに、よくよく姿を見てみればいい。

 旦那さまはきっと、セスとは全然違うはずだ。


 そう決めて、彼のおとないを待てばよかったのだ。

 きっともう一度会えばわかる。

セスと旦那さまとの違いを確かめるすべのない中で、自分の感情に振り回されていただけだったということ。


 だから、シャノンは、旦那さまが来たとき、まず最初に彼の姿をまじまじと見つめることから始めた。


「ん? どうした、お嫁さま」


 髪の色は、よく似ている。


 でも、シャノンの記憶の中のセスよりも、旦那さまのほうが若干上背があるだろうか。


 声も、シャノンの記憶の中のものとは、どことなく違うように思える。

 初めて出会ったときの声が、どうしてそんなにもセスと似ていると思ったのかはわからないが、今きちんと聞いてみれば、そこまで似ているようにも感じない。


 あとは―――。


(香り―――かな)


「旦那さま、近くに寄ってもいい?」

「うん、もちろん」


 あっさり了承される。


 もう十三にもなるのに、こんな真似ははしたないのかも知れなかったが、「心から愛しているように振舞って」いるのだと思えば、少しくらいはお目こぼししてもらえるはずだ。


 一年前のように、駆けて抱きしめるようなことはしない。

 きっとセスに会ったとしても、今のシャノンはそうはしないだろうから。


 彼の腰にぎゅっと抱き着き、すうっとその香りを嗅いでみる。

 上質な、焚きしめられた香の香りがする。


「なんだなんだ? お嫁さまは、私のことが恋しかったりしたのか?」


 抱きしめた旦那さまから香る香りは、セスと同じかどうか、よく、わからない。

 セスとは違うような、けれど同じのような、変な感覚だ。


 ただ、シャノンはどうしてか、その香りから離れたいと思わなくて。

 旦那さまが茶化すように言った、からかいの言葉に乗ることにする。


「―――はい」

「え」


 服越しに、旦那さまがびしりと固まったのがわかった。

 今日十三になる小娘の言葉に、きっと年上であろう旦那さまが振り回されているのが、少しおかしく、シャノンの鼻を若干高くする。


「ふふ、おかしな旦那さま」

「…………」


 つい笑顔になって言うと、旦那さまがふいに黙り込む。


「―――旦那さま?」


 紙の面で隠れた彼の顔を、わからずとも伺うと、その面の向こうで笑顔を作って、旦那さまは首を振る。


「―――いや、なんでもない。今日、持ってきた品があったことを思い出してた」


 そう言って彼が取り出したのは、たくさんの色の刺繍糸。


「最近、時間も忘れてのめり込んでいると聞いてね。せっかくだから、使ってほしい」


 どんな素材を使っているのか見当もつかない、とろりと手に馴染むかのような、上質そうな刺繍糸。

 これだけの色があれば、クッションを包む布にも、壁のタペストリーにも、なんにでも、いろんな刺繡ができるだろう。


「あ!」


 その贈り物を受け取って、引き出しの奥にしまっておいたハンカチの存在を思い出す。

 旦那さまが、全然シャノンの元を訪れないから、ほとんど忘れかけていた。


「旦那さま! 旦那さま! これ、わたしが刺繍したハンカチです。刺繍を練習するようになって、一番に縫い始めたやつだから、あんまりうまくないのだけど……」


 嬉々として差し出したは良かったものの、説明しているうちにシャノンの胸の内からしおしおと自信がなくなっていく。


驚いたように目を瞠ってそのハンカチを見ている旦那さまの前から、そろりとそれを引っ込めようとした。


「欲しい」


 瞬間、手首を捕まえられて、シャノンは一センチほど飛び上がる。

 渡すまで絶対に離さないと言わんばかりに離される気配のない彼の手は、やっぱり熱いように思えた。

 神様の手というのは、いつもこれほど熱いものなのか。

 もう忘れたと思っていた一年前の彼の熱が、シャノンの体にぶり返したような気さえする。


「あ、あげます」


 手首を掴まれたままで、ぐいっとハンカチを差し出すと、旦那さまは嬉しそうにそれを受け取った。


 表情は分からないけれど、きっと喜んでくれている。

 そのことが、嬉しかった。


(―――私には、わからない。セスと旦那さまが同じ人かどうかなんて。でも、私は、セスと旦那さまを重ねてる)


 声も体格も、香りも。

 ちがうという確固たる確信を、どうにも得られない。


(―――そう、認めてしまえばいいんだ。―――大丈夫。許される。どうせ旦那さまは、わたしを好きでお嫁にもらったんじゃないんだから)


 最終的に出た結論は、なぜか少しだけ、シャノンの胸を締め付けた。



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