いちねんめ
「御上を愛するフリって、意外と簡単ね」
この社に来てひと月が経った頃、ひとりぼっちの部屋の中でシャノンは独り言ちていた。
呟いた通り、御上を愛するフリというのは、至極簡単なことだった。
なぜって、そもそも、シャノンが彼と顔を合わせる機会なんてものは、ほとんどなかったのだから。
(ごはんも別。寝所も別。昼も夜も、外に居ても中に居ても、ずーっと別々)
シャノンはただ、時々贈られてくる御上からの品を、つくった笑顔で受け取っていればよかった。
その贈り物を、ただ身に着けていればよかった。
使用人のほかに誰と会うわけでもなし。
そもそも、十一だった小娘に何ができるわけもなかった。
御上に願われた『心から愛しているかのように振舞う』というのが、他からの目を欺くためだとか、御上としての体面を守るためのものだったとして、だ。
まだ十一のシャノンと、御上が口づけたり、大人がするような一夜を過ごすようなことができようか。
まともな思考の持ち主なら、まずしないだろう。
「そろそろ朝の祭事、始まっちゃう……」
神の伴侶―――聖女として、シャノンにはこなさなければならない祭事が日にいくつもある。
その内、朝の祭事と宵の祭事は毎日欠かさず行われるもので、それが催される前に湯浴みを終えて身を清めておく必要がある。
この塔の隣にある浴場から帰ってきたばかりのシャノンは、止まっていた足を床から引き剥がすようにして動き、部屋に置かれた衣装棚を開ける。
御上が定期的に贈ってくる白い衣装は、それぞれ少しずつ、刺繍の意匠が違った。
その一つに、シャノンは袖を通す。
引き出しを開け、お気に入りの簪を取り出す。
御上が贈ってきた品の中では、特に華美でもなく、素朴な意匠のものであったが、それはシャノンが愛してやまない、セスの色の簪であった。
最後に、これまた御上から贈られた香粧の中から、淡い色の紅を選び、唇に指す。
これだけで、支度は終わりだ。
ほんの束の間、部屋の窓から外を眺める。
シャノンにあてがわれた部屋は、塔の長い螺旋階段を上った先にあった。
そこからは、神の国ストラタスを一望できる。
シャノンの故郷がある山も、例外でなく。
「―――セス……」
後ろ髪引かれる思いを断ち切るようにして、シャノンは外から目を離した。
祭事の行われる場所まで、少し急がなければならないだろう。
足早に、長い階段を降りる。
「ひ、ひめさま~、足が速いのだ~」
後ろから追いかけてくるのは、シャノンの目付けのルンダだ。
真っ白で、ふわふわで、まんまるの、不思議な生き物。
ルンダはこの城で唯一、シャノンのことを聖女様でなく『ひめさま』と呼ぶ。
なぜかは知らない。
「ごめん、ルンダ」
「気にしなくっていいのだ!」
シャノンの頭の上がルンダの定位置だ。
ふわふわが頭に乗る感触を待って、シャノンはまた急ぎ足を再開する。
今日も変わらぬ一日が―――御上のためにという名目で、花嫁修業をする一日が、やってくる。
菓子をこしらえようが、衣を繕おうが、どれも一瞥すらされないだろう。
心を込めても意味がないだろうに、とシャノンは半ばふてくされた気持ちで階段を下りた。
***
シャノンが社に来て、一年が経とうとしていた頃。
今まで、遠くからシャノンが一方的にその姿を捉えることはあっても、自分から姿を見せることなど一度としてしなかった御上が、シャノンの居る部屋を訪ねてきた。
「―――私の愛しのお嫁さまは、息災かな?」
外で見るときと同じ、変な模様の書かれた紙をつけている。
そんなものをつけて、政務に差しさわりはしないんだろうか。
それとも、シャノンの前だから、付けているだけか。
「―――御上!」
そんな疑問で彩られた心は押し隠し、ふんわりと笑むようにして、シャノンは呼ぶ。
そして、彼との間の、ほんの数歩ほどの距離を脇目もふらずに駆ける。
腕を広げて待つ神の胸に飛び込んだ。
彼との約束をうまく守れているかどうかは知らないが、要は、目の前に居るのがセスだと思って接すればいいのだ。
御上と顔を合せなかった時間に、どうすればよかったのかずっと考えていた末の結論を、シャノンは今実行していた。
もし、目の前に居るのが、本物のセスだったら。
きっとシャノンは、脇目もふらずに駆けだして、その腕の中に飛び込んで、ぎゅうっと抱きしめてもらうだろう。
シャノンはそれを、忠実になぞっているだけ。
「わ、わー! お、おいらは退散するのだ! 邪魔してごめんなのだ!」
シャノンの頭の上に居たルンダは、あっさり騙されてくれた。
いつもは真っ白なルンダのふさふさの体は、薄く紅色に色づいている。
開いた扉からするりと身を滑らせて出て行ってしまった。
「君にはまだ、私の名を伝えていなかったんだったっけ」
シャノンが来て一年も経つというのに、そんなとぼけたことを神が言う。
セスにも、こういうところがあったなとシャノンはふと思い出した。
毎日シャノンと会っていたのに、久しぶり、なんて、言ったりするのだ。
(―――似ないでほしい)
セスの面影があるのが、いやだ。
これじゃあ、セスの元に戻っても、御上を思い出してしまいそうで。
「なんというお名前なのですか?」
「敬語なんて、使わなくっていい」
紙の面をしていても見えているのか、ひとさし指が、シャノンの唇にそっと押し当てられた。
その声音は、どうしてか、寂しそうだ。
そう。寂しそう。
この人は、なんでかいつも寂しそうだ。
それがとても腹立たしく感じて、シャノンはすぐに口調を直す。
「なんて名前なの?」
「せ……」
「せ?」
「聖女殿には、旦那さまって呼んでほしいなぁ……なんて……」
ダメかな? と覗き込むようにシャノンに尋ねるその神は、問うておきながら譲る気配は皆無だ。
「わかった。旦那さま。これでいい?」
「うん。最高だ。僕のかわいいお嫁さま」
紙の面をしていても、彼が笑えばやっぱりわかった。
そっと、シャノンに触れる手は優しい。
まだ少年のようにも思える彼の腕は、それを感じさせるでもなく、十二になる少女の体を軽々と持ち上げ、視線を(面で隠れて見えないが)合わせるようにする。
そして、シャノンの髪に顔をうずめるようにして抱きしめる。
後頭部をおさえる彼の手は、神とは思えぬ、人と同じ温かみを持っていた。
―――いっそ、熱いくらい。
「お誕生日、おめでとう」
それは、切なげな声だった。
聞いていたシャノンが、思わずびっくりしてしまうほどに。
「―――かわいいかわいい、僕の姫さま」