ぜろねんめ
―――雪が、降っていた。
見渡す限り、どこを見ても、少女から見える世界は白一色だった。
けれどそこに、少女はたった一点だけの赤を見つける。
「セス!」
裾に刺繍がほどこされただけの、けれど見るものが見れば一目でいい品だとわかるような、真っ白な衣装に身を包んだシャノンはその名を呼んだ。
前を歩いていた少年は、シャノンの声に振り向き、その黄水晶の目をそっとやわらげる。
そのことが嬉しくて仕方がなかったシャノンは、先ほど使用人に注意されたばかりなのも忘れて走り出し、その胸に飛び込んだ。
「うわぁ、どうした、シャノン? なにかいいことでもあったか?」
彼の腕は、声は、いつもの通り、愛おしげにシャノンを包む。
その香りにいつまでも抱きしめられていたくて、その胸に額を、次に頬を擦り付ける。
「んふふ、セス、いーにおい」
「おー? シャノンは相変わらず甘えただな」
シャノンの髪に顔をうずめるようにして、彼は嬉しそうに、そう言った。
その声に、シャノンは自分の今の立場を思い出す。
(ああ―――離れたく、ないなぁ)
彼は知らない。
シャノンが着るこの衣装が、神都におわします神に仕える聖女の証であることを。
「シャノン?」
明日からシャノンが、神の妻として、神都に赴かねばならぬことも。
「―――泣いてるのか?」
困惑したような彼の声が、頭上から降り注ぐ。
顔を彼の服に押し付けて、ふるふると首を横に振った。
この涙に気付かれれば、彼はきっと疑問に思うはずだろう。
そうしたら、明日から自分が居なくなることも、彼と離れがたいという気持ちも、話さなければならないだろうから。
それはきっと、彼を困らせるだろうことも、十一のシャノンにはもう、よくわかっていた。
「―――なんでも、ないよ」
全然なんでもなくなさそうだぞ、とシャノンを伺う心配そうな彼の声に、もう一度、シャノンは首を振る。
「そうか?」
セスの顔はまだ訝しげだ。
納得していないときの語尾の上がり方。
「―――もし」
ふいにセスが真剣な声音で言った。
「もし、この先シャノンが泣きたくなったら、俺の名前を呼べよ」
「セスを?」
「ああ」
シャノンを抱きしめる腕に少しだけ力が込められる。
けれど、シャノンにもたらされる何もかもは、ただただ―――やさしい。
「一番に駆け付けて、抱きしめてやる。約束だ」
眉を下げる、くしゃっとした彼の笑い方が好きだ。
けれど今は、それすらもシャノンの胸を締め付けた。
(もう大丈夫―――大丈夫だと、思わなくちゃ)
そう。大丈夫。
最後に、こうして抱きしめてもらえた。
最後に、名を呼んでもらえた。
だから。
「ありがとう―――」
【すれちがい夫婦の馴れ初めは。】
神の国ストラタス―――その常春の都フィリオンを抱く、神を祀る絢爛豪華な社の真ん中には、一筋の塔がある。
「聖女様、お加減はいかがで?」
その塔にある、たった一つの窓からぼんやりと外を眺めていた聖女―――シャノン・イーストウッドは、にこりと笑顔を作って振り向いた。
「心配しないで。すっごく元気だよ。ほら」
昨日と同じ台詞を一言一句違えることなく言い、両腕に力こぶを作るようにして見せる。
「それはよかった。今夜も、御上はおいでになれないと……」
「お仕事がお忙しいでしょうから、仕方ないですよ」
シャノンがそう言って笑うと、使用人は安心したようにほっと息をついた。
「今日の祭事は、明け六つからでございますよ」
「はーい」
シャノンは努めて明るく返事をしながら、使用人の安堵に染まる背中を見やる。
「髪飾りは何をお付けしましょうか」
「んーと……」
そう、迷うふりをして。
本当は、身に着ける色など決まっていた。
赤い花に、しゃらりと琥珀の意匠がついた、シャノンの気に入りの髪飾り。
(大丈夫。まわりの人はみんな、これが『御上のために身に着けた色だ』と思ってるから)
そもそも、あの神が自分の顔を見せることなどないのだが。
いつだって、変な模様の書かれた紙を顔に着けて。
隠された瞳の、その色すらもわからない。
自分を求めて呼び立てて置いて、その姿すら明かさない。
その意気地のなさも、神という身分ゆえに許されているその振る舞いも、シャノンはずっと―――。
けれど、このシャノンの嘘が周りにバレるわけにはいかない。
それが御上との約束だった。
(大丈夫。わたしになら、できる―――ちゃんと、できる)
自分に言い聞かせるように、シャノンは白い服の裾を握り締める。
―――あと五年。あとたったそれだけの、辛抱なのだ。
***
事の発端は、シャノンが十一歳の頃、聖女として社の門をくぐった日の出来事だった。
夫となる男―――御上との対面は、御簾をはさんで行われた。
「よく来たね。そこにお座り」
優しい声音に勧められて、シャノンが示された場所に座る。
一段高い場所に座っている彼を見上げるように顔を向けると、その神が御簾の向こうで笑ったような気がした。
「まだ十一になろうという年の頃だというのに、故郷から離すことになって、すまないね」
申し訳なさそうに、彼はそう言って首を傾ける。
初対面のはずなのに、なぜか聞いたことがあるような声だった。
そのことに、こわばっていたはずの心が、少しだけほぐれる。
「早速だけど、言ってしまおうか」
「なにを、でしょう」
今思えば、礼儀知らずな小娘だった。
許しも得ずに口を開いたシャノンを咎めるでもなく、その神は笑った。
顔は見えないのに、不思議と、彼が笑うときだけはわかった。
見知らぬ場所であったが、そこで優しく笑う男の神の存在は、供も家族もつけることなく、たった一人で神都に足を踏み入れたシャノンに安堵をもたらした。
この神が夫となるのなら、うまくやっていけそうだと。
―――たった一瞬でも、そう思ったのに。
その神は少しだけ寂しげな声音で言った。
「君が十六になる誕生日に、家に帰すよ」
「―――え」
この国で、十六という齢は真実、結婚が可能になる年である。
つまり、夫婦の契りが可能になる年齢だ。
その年に家に帰すということは、清い体のまま、シャノンを解放するということ。
「……わたしは、何か粗相をしてしまったでしょうか」
震える声でシャノンが尋ねると、神の焦ったような声が返ってくる。
「違う」
びくりとシャノンが身を竦ませると、神はぐっと口を噤んで、ため息をつく。
神様でも、焦ることがあるんだと、シャノンはそんなことを思う。
うまくやれないものだな、と頭の後ろをガシガシと掻き毟るような仕草をして呟いた神は、シャノンが見ているのを思い出したのか、すっと姿勢を正して、すました声で言い直した。
「違うんだ。その―――君には、故郷に想い人が居たと、聞いたから」
その言葉に、シャノンは言葉を失う。
それは、セスのことを言っているのか。
きっと、妹くらいにしか思われていなかった―――そんなシャノンの片想いの恋を、どうしてこの男が知っているのか。
きっと傍目にもわかるほど、狼狽していたのだろう。
御上はシャノンを落ち着かせるように、言う。
「すまない。―――この呼び立ては、どうしてもしなければいけなかった。君が故郷に帰っても、決して君の瑕にはさせないよう取り計らうと約束する。だから―――」
「承りました」
御上の言葉を遮って、シャノンは頭を下げた。
頷かない理由などなかった。
たとえ叶わぬ恋だとしても、何もせずにセスを諦めるような真似だけは、しないで済むようだから。
御簾の向こうで、彼が息をのむように言葉を詰まらせる。
それから、少しだけ。
ほんの少しだけ、拗ねたような、苛立ちを含んだような声でこう言った。
「条件が―――ある。これが守られないのなら、先ほどの私の言も果たされない」
なんでしょう、とシャノンが問うと、その声は途端に勢いを失くす。
「その……」
けれど最後には、思い出したかのように、一番最初に纏っていた、一人の優しげな男の佇まいに戻って、彼は条件を口にした。
「―――私を、心から愛しているように、振舞ってほしい」
それは、遠慮がちな頼み方の割に、中々に残酷なもの。
「僕が君を手放す、その日まででよいから」
「―――御上の、仰せのままに」
返事を返したシャノンに、神は笑ったようだった。
―――その笑顔が、なんだか寂しそうだ……なんて、きっとシャノンの思い過ごしだ。