憤怒
綾瀬勉は父と血の繋がりが無かった。
両親が結婚した時、母は父以外の男性との子を身籠っていたのだ。
2人はその事実を知った上で夫婦となった。
勉は母方の連れ子であると。
父方の連れ子も存在した。
勉よりも9つ歳上の姉、輝羅である。
父は以前、母以外の女性と婚姻関係にあったが、
愛人が身籠ったのをきっかけに離婚したらしい。
キララはその時に出来た娘だった。
両親は『勉』以外の名前を付けようとしていた。
だが出生届を提出する際、キララは父に言ったのだ。
「ね〜、パパー
あいつの名前、“つとむ”にしない?
アタシと血繋がってないし、全然可愛く思えないんだよね
どうせなら母親の元恋人の名前とおんなじにしてやろうよ〜
きっと成長する息子の顔を見る度に昔の男を思い出すんだろうなぁ
たしか売れないバンドマンとか言ってたよねぇ?
あいつには本当の父親と同じように惨めな人生を送ってほしいな〜」
「なるほど、ツトムかぁ……
俺も他人の息子なんて可愛くないと思ってるし、
それはそれで面白そうだよなぁ
……あ、そうだ
それなら勉強の勉って書いて“つとむ”にしとくか!」
「勉強の勉……ぶふっ!
ベン……!
いいじゃん、それでいこう!」
ベン……それは大便を連想させる言葉であり、
学校でいじめられてしまえばいいという考えで付けた名前だった。
だが幼稚園でも小学校でも、勉をベンと呼ぶ者はいなかった。
少しは存在したが、いつまでも呼び続ける者はいなかったのである。
そんな幼稚な真似をするのは、勉の父と姉だけであった。
「あれ、パパ?
この部屋、なんか……ベンの臭いがしない?」
「ん〜、どれどれ……?
あ、本当だ 臭っさいなあ
これから夕飯だってのに、誰かベンでも漏らしたのか?」
「……あれ、ベン?
こんな時間にどっか出掛けるの?
これから“家族”ですき焼きなのに……
アンタって本当に協調性が無いよね〜」
「まあまあ、キララ
ベンは“家族”との食事よりも、菓子パンやカップ麺が好きなんだ
それなら大好物を食べさせてやろうじゃないか
……ほら、100円だ
あと服はちゃんとした物を着てけよ
ご近所さんに虐待を疑われたくないからな」
「アタシのパパは虐待なんてする人じゃないよ〜!
誰よりも“本当の家族”を大事にする人だもん!」
「ははは、さすがは“俺の娘”だな!
よくわかってるじゃないか!」
いつも夕飯時になると、勉は食卓から追い出された。
それはまあいい。
父の言ったことは大体合っている。
あの“家族”と一緒に過ごすよりも、公園で1人になりたい。
凍った肉や伸びたラーメンを食わされていた頃よりはマシだ。
勉は鞄からコッペパンを取り出した。
学校の給食を持ち帰った物だ。
それを半分に千切り、残りは鞄に仕舞った。
今日の夕飯はそれだけでいい。
これで100円を使わずに済むのだから。
明日は残りのパンを食べればいい。
帰宅すると“家族”はもう布団で眠っていた。
勉はいつものように静かに洗い物を済ませ、
冷たいシャワーを浴びてから歯を磨き、
タンスと壁の隙間で毛布にくるまって朝まで過ごした。
勉は学校が好きだった。
勉強も運動も楽しいし、先生も友達も良くしてくれる。
そしてここでは“家族”なんてものを気にしなくてもいい。
何も心配せず、思い切り自分を解放することができる場所だった。
と思っていたのだが、ある日……
「綾瀬君、何か困ってることがあるのなら先生に言ってみて?
君はおとなしい子だから、何を考えてるのか伝わりにくいの
声は小さいし、いつも同じ表情だと私たちも困っちゃうよ」
衝撃だった。
自分ではうるさすぎるくらいに元気な子供だと思っていたのだが、
先生からは声の小さいおとなしい子だと思われていた。
更によくよく周りの反応を確かめてみると、
同級生たちはそんな自分を気遣って声を掛けていただけだった。
勉はガリガリに痩せ細っており、
何かの病気を患っていると思われていたのだ。
その誤解が解けてからは、本当の意味での友達が出来た。
放課後はよく彼らの家に招かれ、ゲームを遊ばせてもらった。
家にも最新機種はあるが、それは父と姉しか触ってはいけない物だった。
最初は遠慮がちに遊んでいた勉だったが、
何度も友達と交流するうちに心を開いてゆき、
徐々にゲーマーとしての才能を開花させることになる。
やがて彼はゲーム名人として崇められるようになり、
ますます学校に行くのが楽しみになった。
だが、そんな充実した日々は唐突に終わりを告げた。
「ベン、友達と遊ぶの禁止な
学校終わったらまっすぐ帰ってこい」
「これもアンタのためなんだからね!
車の事故とか、変質者とかに遭遇しないためのね!
パパってば本当に優しい〜!」
「ははは、こんなの父親として当然だろう!」
彼らは、勉が幸せそうにしているのが気に食わなかったのだ。
それからは言いつけ通りにまっすぐ帰宅し、また元の生活に戻った。
学校、家、公園、学校、家、公園……。
ある日、勉は父に書類を提出した。
「ん、なんだこれ……
え……はあ?
DNA鑑定……はあっ!?」
それは、勉と父に血縁関係が無いことを証明するものだった。
「えっ、いやいやいや!
勝手に何してんだよ……
お前と血繋がってないことなんて最初から知ってたんだよ!
こういうのって結構金かかんだろ? 無駄遣いしやがって……
つうか、その金はどっから出てきたんだよ!」
「あなたが毎日100円くれたじゃないですか
それを1000日貯めれば10万円になりますよね?
まあ、実際はそんなにかかりませんでしたが……
俺が子供だから、特別に割引してくれたんです」
「いや、だからって……
それを証明したところでなんになるんだよ!
お前がもう少し大人になったら話すつもりだったんだぞ!」
「俺はこの“家族”と縁を切りたいんです
弁護士の先生が言うには実子だとそれは難しいけど、
血縁関係の無い親子なら可能なんだそうです
これはその証拠として使わせてもらいます
あなたと血が繋がってなくて本当によかったです」
「弁護士……はあっ!?
なんだよ弁護士って……!
そんな、相談する時間なんて無かっただろ!?
大体、どこで知り合ったって言うんだよ!?」
「毎晩ほっつき歩いてましたし、時間ならありました
友達の親に弁護士の知り合いがいまして、
その人が親身になって相談に乗ってくれたんです
……ああ、それからこっちの書類も見てください」
父はそれに目を通して狼狽した。
「えっ、いや、なんだこれ……
俺とキララとの血縁関係…………無し!?
…………
……いや、そんなはずないだろう!!
あいつはお前と違って、俺の実の娘だぞ!?
こんなのデタラメに決まってる!!」
「いえ、詳しく調査してもらったところ、
キララさんはあなたと元愛人の娘ではなく、
その元愛人と別の男性の間に出来た娘なんだそうです
……あなたは托卵されたんですよ」
絶句する父に対し、トドメを刺す。
「ちなみに、キララさんのお子さんはあなたの子で間違いありませんよ
“本当の家族”が出来てよかったですね おめでとうございます」
キララは父との子を宿していた。
生物学的には赤の他人なのだから問題無い。
だが、仮にも実の娘として育ててきた女性を妊娠させたのはまずい。
それでは世間体が悪い。
「お前……この野郎!!
本当に勝手なことしやがって……!!
お前のせいで“俺の家族”が滅茶苦茶じゃねえか……!!
どうしてくれんだよおおおおお!!!」
勉はバットで殴られた。
今まで世間体を気にして暴力だけは振るわなかった父が、
血の繋がらない息子の顔面に渾身のフルスイングを放ったのだ。
この時の怪我が原因で、勉は右目の視力をほとんど失った。
彼が前髪を伸ばすようになったのは傷痕を隠すためである。
父の逮捕を機に両親が離婚、姉は出産……と色々あったが、
勉は無事に児童保護施設へ預けられることとなり、
とりあえずは劣悪な環境から抜け出せた。
その際、彼は改名も行なっていた。
元家族から粘着されるのを防ぐための措置だ。
栗林努。
それが彼の新しい名だ。
苗字は元母親の旧姓であり、
名前は憧れのギタリストから取ったものだ。
彼は友達の家に通っていた頃、素晴らしい音楽と出会っていた。
それはヘヴィーメタルという名のジャンルであり、
魂を揺さぶるような激しく情熱的な演奏が特徴的なものだった。
その中でもとりわけ千本木努の楽曲“憤怒”を大層気に入り、
ゲームそっちのけで聴き入ることが度々あったくらいだ。
彼は音楽と触れ合ううちに感情表現が豊かになっていった。
今まで彼は自身の名前をあまり気に入っていなかったが、
この音楽との出会いのおかげでその名前を好きになれたのだ。
後ろ髪を伸ばしているのもヘヴィーメタルの影響である。
──栗林努は自身の半生を振り返り、
なんて惨めな人生を送ってきたのだろうと自虐した。
世間体を気にする癖に背徳的な行為をやめられない父、
性悪な姉、そして実の息子を一切守ろうとしない母。
そんな家庭に生まれてしまったのは不幸以外の何物でもない。
だが、そんなゴミのような家庭環境なんてどうでもいい。
自分はその境遇から脱することができたのだ。
それはもう過去の話だ。
なのに、思い出したくないのに、なぜか当時の記憶が蘇ってしまう。
孤独だった頃の自分を振り返ったところで、状況は何も変わらないのに。
彼は今、最大の災難に直面していた。
いや、実際に被害を受けたのは自分ではない。
平塚彩の人生が終わってしまった。
彼女はもう、幸せにも不幸せにもなれない。
夢を叶えることも、見ることすらできない。
誰かを助けたり、助けられることもない。
死んでしまったのだから。
彼女には志があった。
自身に戦う力が無くとも、戦う人たちを支える立場になりたいと願い、
その道へ進もうと努力をしていた。
彼女には優しさがあった。
家が近いから炊き出しを手伝っていると話していたが、
彼女ならきっと遠くからでも駆けつけていただろう。
そして、その優しさゆえに命を落としたのだ。
祖父母を助けに戻らなければ死なずに済んだはずだ。
だが、彼女にその選択肢は無かった。
それが平塚彩という人間だからだ。
火災発生から数日後、冒険者たちはダンジョン外の魔物を完全に排除し、
戦いの舞台はダンジョンの中へと移っていた。
ここの魔物たちは凶暴化しており、数も平常時の10倍以上だそうで、
放置しておけばまた流出してしまうのは確実だ。
「死ね」
栗林努がそう呟くと、トロールの頭が弾け飛んで撃破が完了する。
その元10mの巨体がズシンと音を立てて第3層の出入り口を塞ぐ。
「よし、よくやったぞグリム!
これで明日まで通行止めだ!」
進道千里に褒められるが、努は無反応のまま他の敵を探し始めた。
「おい待て、目的は完了したんだ!
さっさと引き返して味方と合流するぞ!」
だが努は敵……無条件に破壊してもいい対象を求めて奥へ進もうとする。
「チッ、やっぱりこうなったか……
しゃあねえ、おれを恨むなよ!」
千里はソウルゲインの魔法を発動し、努のMPを全て吸い取った。
だが最大MPの100%を奪ってもそれで終わりではない。
魔力を限界以上に消耗させて意識を断ち切るという強硬手段。
しかし、努はなんとか気合いだけで抵抗を続ける。
「ぐっ……!!
いきなり何すんだよ!!
今すぐ魔力を返せ!!
俺の邪魔をするなあぁ!!」
血走った目で訴えかける彼に、甲斐晃が近づく。
そしてそのまま彼を抱え上げてダンジョンの入り口を目指して歩き出す。
「くそっ!! 離せよ!!
俺のことは放っておけよ!!
お前らには関係無いだろ!?」
「いや、放っておけるわけがないだろう
今のお前は危なっかしい
自棄を起こさないという約束を破ったしな
明日からはまた、リリコにこの役目を果たしてもらう
……なあ、しばらく休め
お前はまだ戦える状態じゃないんだ」
「勝手に決めつけるんじゃねえ!!
俺は戦える!! 俺は冒険者だぞ!!
敵をぶっ殺しまくって何が悪いんだよ!!」
だが晃はその質問に答えず、一行は戦場を後にした。