行軍
北東の森から聖域を目指す我々の前に、
またしても大きな壁が立ちはだかった。
蚊柱が。
『蚊』の文字を使ってはいるが、
その正体はユスリカであり、実は蚊ではなく蠅の仲間だ。
吸血昆虫ではないので病気を貰う危険性は低いものの、
見た目の気持ち悪さや、感触の不快さでは圧倒的にこちらが上だろう。
作戦参加者たちは全員新品のツナギを着用していたが、
それでは絶対に服の中に敵の侵入を許してしまう。
なのでここでまた新たな装備を購入し、実戦投入したのだ。
防護服。
これなら全身を包み込んでくれるので隙間が出来ず、
虫の侵入を防ぐだけでなく有毒植物からも身を守ってくれる。
先走って買ったツナギは無駄になるが、まあ私生活で使う機会もあるだろう。
とにかくこれで準備完了だ。
あとは道中の魔物を蹴散らしながら目標地点へと進むのみ。
午後4時、野生の獣と遭遇。
それは体長2mを超える巨大な猪だった。
生まれて初めて直面する野生動物の威圧感にやられ、
恐怖で冷静さを欠いた生徒は誤った行動を取ってしまう。
2年生の男子がその猪を追い払おうと、石を投げてしまったのだ。
猪は本来おとなしい動物であり、妙なちょっかいをかけなければ
基本的には向こうも何もしてこない。
これは猪に限らず、他の野生動物にも大体当て嵌まる事だ。
攻撃してきた相手を敵と認識して反撃する。
それは命ある者として当然の防衛行動である。
「うおおおお!?」
「ヤバイヤバイヤバイ!!」
「こっち来んなあああ!!」
巨大猪の突進を受けた数名が紙切れのように空中へと巻き上げられ、
野生の力の前では人間など無力なのだと思い知らされる。
鎧を着込んでいればダメージを抑えられたのだろうが、
防護服との両立はさすがに不可能だったので諦めるしかない。
暴走を続ける巨大猪。
吹き飛ばされる仲間たち。
状況を変えたのは立花希望だった。
「ファイヤーボール!!」
彼女の放った火球は巨大猪には直撃せず、
その足元に落ちてメラメラと燃え広がった。
すると猪は彼女を敵として認識して睨みつけるが、
魔法で作り出した炎が邪魔でそれ以上進めない。
「ファイヤーボール!」「ファイヤーストーム!」
ヒントを得た冒険者たちは次々と炎属性の攻撃魔法を放ち、
炎の道を作り出して猪をその場から遠ざけるように誘導した。
たとえ幻だとしても、生物の本能が炎を怖がらせるのだ。
それに本物ではないので火災を引き起こす心配も無い。
彼らは現状で最も有効な魔法の使い方を学ぶことができた。
そして数分後、巨大猪は一行の前から姿を消した。
しかしこの一件で7名の生徒が骨折や打撲などの怪我を負い、
恐怖心から辞退を申し出た3名を合わせて計10名が脱落となった。
現地の冒険者からも5名の脱落者が現れ、戦力ダウンは免れない。
東軍の残りは51名。
もし北軍と西軍も同じような状況なら全部で150名ほどしかいない。
1ヶ月以上もダンジョンから溢れ続けていた魔物たちを処理するのに、
果たしてそれだけの人数で足りるのだろうか?
午後5時、魔物と遭遇。
それは体長5mを超えるミノタウロスだったが、
冒険者にとっては体長2mの猪よりも安心して臨める相手である。
こいつもさっきの猪と同じく攻撃手段は突進しかないのだが、
追尾性能はさほど高くないので横にかわしてしまえば安全なのだ。
『猪突猛進』という言葉のせいで猪はまっすぐにしか進めないという
イメージを持っている方も多いが、実際の猪は機敏な動きが可能であり、
急な方向転換はもちろん急停止や急発進、バック移動もできる他、
ジャンプ力にも優れた、走りのスペシャリストなのである。
ミノタウロスと猪、同じ突進の使い手でもその性質は大きく異なる。
無論、猪の方が遥かに優れているという話だ。
「フリーズ!」
そして今まさに突進中であるミノタウロスに凍結魔法が放たれる。
それも全身にではなく、脚だけを狙いすました一発だ。
バキン!!
ズザアアアッ!!
膝から下を凍らされたミノタウロスは尚も突進を続けようとした結果、
脚が折れてそのまま前方へと勢いよく倒れ込んだ。
こいつには“起き上がる”という行動パターンが用意されていないので、
こうなってはもう何もできず、ただのサンドバッグと成り果てる。
正面からまともにやり合えば強敵だが、ハメ技を使えば楽勝の相手だ。
午後6時、再び魔物と遭遇。
それも単体ではなく、複数の種類が木々の間を彷徨っていた。
奴らは冒険者たちの魔力に反応して一斉に襲い掛かってきたが、
質も量もこちらが上だったので難無く返り討ちに成功。
この戦闘自体に特筆すべき事項は存在しない。
ただ、確実に魔物の巣へ近づいているという実感が湧いてくる。
「ダンジョンの外で混乱が起きてなくても、
魔物って流出するもんなんですね
今回の緊急事態は、群馬の人たちが気づくまでは
誰もその事実を知らなかったっぽいし」
防護服のせいで識別しづらいが、質問の内容からして2年生だろう。
おそらく質問者もこちらが誰だか把握できていない。
円滑な意思伝達を行うためには何かしらの目印があるといい。
先程ファイヤーボールを使ったのが立花希望だと特定できたのは、
彼女の身長が極端に低いという外見的特徴があったおかげだ。
「単純なカラクリだが、ダンジョンの出入り口が大きければ
それだけ魔物が外へと溢れ出やすくなる
内部の地形も流出のしやすさに大きく影響していて、
複雑な地形であるほど溢れ出にくい……まあ、当然だな
足立フォレストワールドのダンジョン群がいい例だ
あれだけ多くのダンジョンが存在していたにも関わらず、
出入り口が小さく内部構造が複雑なおかげで
年間の流出量はせいぜい1〜2匹に抑えられているんだ
平均的なダンジョンは定期的に巡回をしておかないと、
外が平和でも月に30匹以上は溢れ出てもおかしくはない
……というのは1年生の時に習ったはずなんだがな」
「あはは、そうだったかも〜
……って、あれ?
その眼鏡は七瀬君?
なあんだ、先生かと思って敬語で話しかけちゃったよ!」
「ああ、気にしなくていい
俺も君が誰だか識別できていないからな」
「並木美奈」
「えっ」
「3年生で、生徒会長の、並木美奈」
「……」
「今あんた、先輩に対してタメ口聞いたよね?」
「いや、それは……
勘弁してくださいよ……」
やはり目印は必要だ。
午後7時、視界内の魔物を排除し終えたので一区切りし、
本日の行軍はここまでにして野営の準備に入る。
慣れない環境での戦闘で大半の者が疲弊していたし、
夜行性の野生動物が活動する中を動き回るのは危険との判断だ。
この場所は木々の間隔が広く見通しが良いので、
いつ敵と遭遇したとしても即座に対応ができる。
そのまま第一の防衛拠点にしてもいいだろう。
「いや〜、歩いた歩いた!
俺、山道って初めてだけど案外なんとかなったな!」
「あ、俺も登山初体験だけど全然平気だぜ!
やっぱ日頃の訓練の賜物なんだろうな〜」
どうやら盛大な勘違いをしている者たちもいるようだが、
我々は山には登っておらず、その周りの森を歩いただけだ。
登山する必要があるのは最終段階の聖域周辺のみであり、
それまでは決して村人の縄張りに近づいてはならない。
守るべき存在から撃たれる可能性は大いにある。
「それにしても厄介な場所にあるよね、今回のダンジョン
普通ならある程度文明が発達した都市部に存在するのに、
まさか地図にも載ってないド田舎にあったとはねえ」
そう発言したのは黒岩先輩だ。
他の先輩方はそれを否定するでもなく、
道中で味わった苦労を振り返って同調していた。
まったく、あの人たちときたら……。
最上級生だというのに基本的な知識が欠如している。
ダンジョンは人間の生活圏内に発生するのではなく、
ダンジョンの周りに人間が生活圏を築き上げるのだ。
世界四大文明もそうやって発展していったという説は、
これまでに歴史の授業で習ったはずである。
彼らの間違いを訂正してやるべきだろうか。
このままにしておくと、いつか恥をかいてしまいそうだ。
だが、後輩である自分が出しゃばるのはいかがなものか。
もしかしたら先輩方はちゃんとした答えを知りつつも、
わざわざ訂正するのが面倒だから何も言わないだけかもしれない。
ここは沈黙が正解だろう。
「おいおい、みんな!
人が住む所にダンジョンが出来るんじゃなくて、
ダンジョンの周りに人が町を作るんだぜ?
だいぶ前に授業で習ったし、テストにも出ただろ?」
「え、そうだったの!?
あたし全然記憶に無いんだけど!
そういやヒロシは歴史強かったよねえ
危ない危ない、間違った認識のままでいつか赤っ恥かくとこだったよ
訂正してくれてありがとね」
先輩方は正しい知識を身につけることができて、これにて一件落着だ。
……非常にもどかしい。
自分が教えてやりたかった。
沈黙すべきではなかった。
出しゃばってもいい場面だったのだ。
──翌日、午前6時。
この場所に残るメンバーが発表された。
防衛拠点はあと2つ設ける予定だそうで、
ここには落合先生と2年生10名を配置するとのことだ。
その10名の中には七瀬圭介……つまり俺の名前も含まれていた。
屈辱だった。
ここは聖域から最も離れた拠点であり、
言い換えれば最も安全な拠点である。
そんな場所に配置されるのは一体どのような人員だろうか?
そう、弱い者だ。
自分は物理も魔法もそつなくこなせるバランス型の冒険者として、
又、去年のトーナメント優勝者としてそれなりに強いという自負がある。
先生方も決して弱い生徒だとは思っていないだろう。
だが、俺とリキを除く8名は明らかに実力の劣った生徒であり、
自分は彼らの御守を任されたのだと思うと複雑な気分になる。
「げえっ、有馬と一緒の班かよ……最悪」
「また暴走しても俺知らねーからな」
「薬のストックは用意してあるんでしょうねぇ」
そして散々な言われようだ。
リキが嫌われているのにはそれだけの理由があるのだが、
もう半年おとなしくしているのだから少しは安心してほしいものだ。
それと、リキのおかげで救われた人々がいる事実を彼らは知らない。
リキと同じ能力者たちだ。
それまでは単にものすごく怒りっぽい人としか扱われなかったが、
“一触即発”の能力が判明したおかげで周囲の見方が変わったのだ。
彼らは自分自身の能力に苦しめられてきた最大の被害者であり、
そのほとんどが本来は柔和な性格の持ち主……普通の人間だった。
リキは月に2〜3回の頻度でグループセラピーに参加して
お互いの近況を伝え合ったり、アンガーマネジメントを学んだりと、
なるべく鎮静剤に頼らず日常生活を送れるように努力を続けてきた。
自分は心理学の専門家ではないので断言はできないが、
リキの精神状態は安定しており、暴走する可能性は無いように思える。
それよりも、野生の猪に石を投げたアホの方が危険だ。
奴は惨事を招いた張本人だというのに平然とした態度であり、
昨日の出来事をまるで他人事のように友人と語り合っている。
問題を起こしておいて責任は取らない。
あいつには要注意だ。