守護者
秩父地方は埼玉県の西部に位置し、とても自然豊かな土地である。
蒟蒻芋や杓子菜、味噌を使った食品などが有名であり、
祭りが多い地域としても人気の観光地である。
が、それは表向きの情報であり、
この地には地元民でさえ知らない裏の顔があったのである。
秘境。
『外部の者が足を踏み入れておらず、一般に知られていない場所』。
辞書にはそう書いてあるが、今回の現場がまさにそれだ。
森林率が8割を超えるこの地には衛星写真でも確認できない区域があり、
そこに人が住んでいるという事実が知れ渡っていないのだ。
そもそも山奥に居を構える意味がわからない。
文明から隔絶された暮らしは不便だろうし、山には危険な動物もいるのだ。
その場所に村があって人々が生活を営んでいると言われても、
麓の住民にはピンと来ないのである。
「それはさておき、長野の方でも魔物が出現したそうだ
やはりそいつらも山から下りてきたらしく、
甲斐が言っていた“聖域ダンジョン”から漏れ出た可能性が高い
具体的な位置は不明だが、魔物が流出しているのは確実だ
よって、一刻も早く魔物の脅威を取り除くために
これより我々は未確認ダンジョンがあると思われる区域……
“聖域”を目指して進行を開始する
……の前に、全員に支給する物があるから並べ」
生徒たちは指示通り2列に並び、内藤訓練官と落合訓練官から
信号灯、犬笛、熊撃退スプレーなどのアイテムを受け取ってゆく。
「信号灯の使い方を決めておくぞ
それは自分の居場所とコンディションを伝えるための手段だ
人間が会話可能な距離は3mと云われているが、
この進軍では両隣の者とそれ以上の距離を取ってもらう
そして木々に囲まれた環境ゆえに言葉でのコミュニケーションは難しい
当然だが、森の奥では電話が通じないだろう
そこで光の出番だ
緑色は問題無し、黄色は簡単な問題に対処中、
赤色は助けが必要だと判断した時に使う
……とりあえずはこれでいこうと思うが、
他に何かいい使い方があれば今のうちに言ってくれ」
「はい」
手を挙げたのはヒロシだ。
頭には愛用のライト付きヘルメットを被っており、
他の生徒たちよりも“探検家”っぽい風格がある。
登山経験は無いにしろ、何かを期待させてくれる。
「モールス信号を理解できる人間を
一定間隔に配置するというのはどうでしょう?
そうすれば、より細かい情報を遠くまで伝達できるはずです」
「モールスか……
まあ元々そういう目的の道具ではあるが、理解者はどれくらいいるんだ?
ちなみに俺はSOSしか知らないし、それなら赤信号で事足りる」
たとえ優秀な冒険者であっても知らないことはある。
内藤訓練官と落合訓練官の両方がモールス信号を覚えていないとなると、
彼らは今までそれを必要とした経験が無いのだと察せられる。
優秀な彼らには不必要だった知識……。
それを知っているのは、個人的な好奇心で学んだ者だけだろう。
結局、モールス信号の理解者はヒロシしかいなかった。
午前6時、作戦開始。
前日の緊急招集が発令された当初は
もっと広範囲を捜索する必要があると思われていたので
人手が足りるのか不安だったが、“聖域”というある程度具体的な
目標区域が指定されたおかげで捜索範囲を絞ることができ、
おそらく充分であろう人数で幸先の良いスタートを切れた。
と思いきや、早速そこかしこで黄色や赤色の光がゆらめくではないか。
だが、どこを見渡しても魔物と戦っている者はおらず、
冒険者たちはその場で信号灯をブンブンと振り回しているだけだ。
彼らは道具の使い方を知らないというわけではなく、
もちろん遊んでいるのでもない。
表情と声からして、彼らは生理的嫌悪感を覚える何かと戦っているようだ。
「うぎぃぃぃぃぃぃ!!!」
「登ってくる!! 足から登ってくる!!」
「耳の近くを飛ぶんじゃねえええ!!」
「無理無理無理無理!!!」
「ちょっ、やっ、下着の中に入ってきた!!」
「なんだって!? 僕に見せてくれ!!」
そう、虫。
都会で生活していると忘れがちになる、大自然の姿の1つだ。
1匹2匹だけならまだしも、それが草木の陰から大量に襲ってきたら
耐性のついていない彼らが取り乱してしまうのも無理はない。
たとえ巨大な魔物に怯まず立ち向かっていける精神の持ち主だとしても、
小さくてブンブンガサガサと動く連中相手には無力になるのだ。
「ははは、なんだよオメーラ
カブトムシとかクワガタも触れない感じか?
そんなんじゃ田舎暮らしは絶対できねーだろうな」
リリコは無邪気な笑顔を浮かべながら足元の虫を拾い上げ、
同級生たちに向かって自慢げに見せびらかした。
「ほら、これなんてどーよ?
カブト……じゃねーな、クワガタ…………でもねーけど、
虫なんて所詮、人間様の手の中に収まる程度の奴らばっかだぜ?
そんな小っこい存在にいちいちビビってたらキリがねーよ」
「いや、サイズだけの問題じゃないよね
……ってゆうか、高音さんが持ってるその虫は何?
黒くて重量感があって…………まさかゴキブリじゃないよね?」
「ぶははは!
そんなわけあるか!
ゴキは茶色いし、こんなもっさりした動きじゃねーって!
オレもあいつだけは苦手だけど、こんなとこにゃいねーだろうよ!」
と豪語するリリコに対し、ユキが解説を加える。
それは彼女の勘違いを正してやりたいという純粋な思いからの行動だった。
「むしろゴキブリは……というか虫全般は森こそが本来の住処だよ
ゴキブリは全部で4000種類以上だと云われてるけど、
屋内に現れるのはクロゴキブリとチャバネゴキブリがほとんどで、
次点でヤマトゴキブリとワモンゴキブリの計4種類くらいだね
ちなみに今リリコが持ってるのは“黒いダイヤ”とも呼ばれる品種なんだ」
「へえ、ダイヤ」
…………。
「ウオアアアアアァァァッ!!!!!」
午前9時、作戦開始から3時間が経過。
未だ魔物の姿は見当たらず、ダンジョンらしきものも確認できない。
180分間の連続活動は魔法学園の生徒たちにとって大した労力ではない。
彼らは日頃から悪路走行訓練をこなして心身の強化に努めており、
この程度の行軍で気力や体力が尽きることなど考えられない。
が。
「せ、先生ぇ〜!!
そろそろ休憩にしませんかぁ〜!?」
生徒の多くは見るからに疲労困憊の様相を呈しており、
中には帰りの分の水を飲み切ってしまった者もいるようだ。
空は穏やかな晴れ模様であり、気温は高くも低くもない。
足場は少しぬかるんでいるが、訓練に比べればイージーモードだ。
山の勾配もなだらかなもので、ほぼ平坦な道が続いている。
それなのに、なぜ。
「ウギャ!」
女子生徒が顔を歪めて短く叫ぶ。
例によって魔物と遭遇したわけではなく、
またしても生理的嫌悪感を覚える何かに出くわしてしまったようだ。
彼女は引き攣った表情を浮かべながら、
靴の裏の物体を近くの木に擦り付けた。
そう、動物の糞。
ぬかるみに混じって配置されている極悪トラップだ。
誤ってそれを踏んでしまうと、ブチュっとした嫌な感触と共に
酷い悪臭に悩まされるばかりか蠅が飛び回り、非常に不快な気分になる。
そこらじゅうに存在するわけではないが、少しの油断が悲劇を招く。
彼らはこれを踏まないように細心の注意を払って歩いた結果、
余計な緊張感が生じたせいで体に無駄な力が加わり、
必要以上に体力を奪われてしまったのだ。
訓練で使用しているのはただの泥なので安心して倒れ込めるが、
この場所で転んだり座ったりは絶対にしたくない。
そのため立ったまま小休止せざるを得ず、ろくに疲れが取れやしない。
このような“不快”のバッドステータスは“気にしない”のが一番の対策だが、
そこまで図太い神経の持ち主は残念ながら1人もいなかった。
訓練官たちは相談し、総員に撤退命令を出した。
現在地には規制線を張り巡らせ、ここまでは進んだという目印を残す。
予定していた半分以下の距離しか進んでいないが、
このまま強引に続行しても良い結果は得られそうにない。
正午。
彼らは麓の町へと引き返し、体力回復と作戦の見直しに努めた。
動ける者はアウトドア用品店で人数分のツナギとブーツを購入し、
更に蚊やダニなどの吸血昆虫用の対策グッズも仕入れてきた。
吸血昆虫は病原体を媒介するので、ゴキブリよりも危険な存在である。
というより、実はゴキブリはそれほど有害な生物ではないのだ。
もちろん彼らが病原菌を運んでくる場合もあるが、
臆病な性格をしているので積極的に人間を襲うことはない。
ゴキブリが人間を噛むのは血を吸うためではなく、
餌と間違えてついうっかり齧り付いてしまうだけである。
ゴキブリと聞くと不潔なイメージを思い浮かべるかもしれないが、
実は綺麗好きだという意外な一面を持っている。
彼らは強力な殺菌作用のある物質を分泌して全身を保護するため、
雑菌だらけの場所でも平気で活動することが可能なのだ。
しかも善玉菌を殺さず、有害な菌だけを狙い撃ちするおまけ付きだ。
その抗生物質を医療に役立てようという研究も進められている。
それでも主に見た目の不快さから嫌われがちなゴキブリだが、
自然界において重要な役割を担っていることを忘れてはならない。
彼らは他の動物の餌となったり、腐敗物を分解して土に栄養を与えたり、
我々が住むこの地球を命の星たらしめる活動に大きく貢献しているのだ。
人類が絶滅しても地球は回り続けるが、
ゴキブリが絶滅すれば死の星と化すだろう。
「彼らこそがこの星の守護者であると言っても過言ではない──」
「ユキちゃん
もうゴキブリの話やめよっか?」
「了解」
午後1時。
再出発に向けて調整中の冒険者の元に、村からの使者がやってきた。
彼女は大きな翼を広げて特定の生徒の上空を旋回している。
「あっ、タカコさん!」
野生の鷹である可能性もあったが、直感はそう告げなかった。
状況を考えるとアキラからの連絡とみるべきだろう。
そして実際、その読みは当たっていた。
ヒロシの腕に着地した彼女の足には手紙が括り付けられており、
そこには現在の村の様子が記されていた。
訓練官2人はその内容を把握し、作戦参加者たちに詳細を伝える。
「“村”も“里”も魔物の襲撃を受けて防衛中とのことだ
幸い、今のところ物理攻撃の通らない敵は1匹も確認されておらず、
村人たちは猟銃や罠、農具や工具などで応戦しているらしい
数名の軽傷者は出たが、死者は1人もいないそうだ」
「さすがはアキラを輩出した村の民……
全員レベル99だとしても驚かないぜ」
「だが、彼らがいかに強かろうと一般人であることには変わりない
魔物への対処はあくまで冒険者の管轄だということを忘れるな
とりあえず聖域ダンジョンの位置は特定できたそうだから、
これからしばらくは流出した魔物の排除だけに専念すればいい」
「おおっ、とうとう見つかったんですね!
アキラは毎週実家に帰る度に探しても見つからなかったそうだけど、
やっぱり大勢で探すと違うなあ 数の力は偉大だ……」
「いや、そういうことではないらしい
先月の台風の影響で大規模な土砂崩れが発生して、
ダンジョンの出入り口が剥き出しになっていたそうだ
麓の住民はどうせ人の住んでない地域での出来事だと思っていたし、
現地の村人にとっては文字通りの聖域で誰も踏み入ってはならず、
土砂崩れ程度で自分たちの生活に支障は出ないだろうと放置していた
……が、彼らが思っているより事態は深刻だったというわけだ」
「もし先月の時点でアキラが帰ってたら……
なんて、たらればの話をしてもしょうがないか
俺たちはこれから何をすればいいですか?」
「魔物の発生源である村の北側に戦力を集中させるため、
我々は村の北東から目標地点へと向かい、
北軍と合流しつつ聖域と村の中間に防衛線を築き上げる
南の守りは中央の生徒だけでもなんとかなるだろう」
中央魔法学園は冒険者より技術者の育成に力を注いでおり、
今回の任務に参加した4校の中では一番戦闘力が低い。
だが超強い村人たちが防波堤になっているおかげで
北から南へ魔物が流れてくる心配はほぼ皆無なので、
南側は必要最低限の戦力さえあればいいと判断したのだ。
「とにかく移動開始だ
各班点呼を取り、準備が出来次第バスに乗り込め
……全員新しい靴に履き替えておけよ?」
「「「 はい!! 」」」