野良犬の流儀
「おっ、吹いてんねえ」
店の外でビュゴオと鳴ったかと思えば、空っぽのレジ袋が宙を舞う。
それを回収しようと慌てて追いかける女子高生に衆目が集まる。
行き交う人々は押し黙り、自然現象が生み出す奇跡の瞬間を待った。
8〜9月は年間で最も台風が多い時期であり、
それは今年も例外ではないようだ。
商店街ではいつもより早く店仕舞いをしている所も多く、
あちらこちらでシャッターがガタガタと音を鳴らしている。
だがこの程度の強風はまだまだ序の口、嵐はこれからである。
ここ松本精肉店では、来たる台風に備えてある催しを行なっていた。
この時期になるとなぜか揚げ物を中心に売上が爆増するので、
それを見逃す手は無いと決心して始めたのが全商品半額の台風特売である。
店主は赤字覚悟の出血大サービスのつもりだったが、
これが予想以上に大成功したので今年も開催したというわけだ。
そして彼らは今年も戦略通りに事を運び、
自慢の商品たちを見事完売させることができたのだ!
「かんぱ〜い!」
上機嫌の松本静香が十坂とグラスを交わす。
テーブルの上にはいつもの肉づくしではなく、寿司や天ぷら、ピザなどの
普段はなかなか注文する機会の無い宅配物が並べられていた。
賄いを作るための食材不足……というわけではない。
特に深い意味は無く、お祝いの時は普段とは違う物を食べようという、
ただそれだけの単純な理由である。
できれば彼女の母親も一緒に食卓を囲めればよいのだが、
今日は特に帳簿の整理が忙しいので手が離せない。
なのでいつも通り、若い2人だけでの夕食となった。
「ふっふっふー
どうかね、十坂君?
これが我が家の伝統……台風特売だよ!
2年前から始めたんだけど、これが大好評でね!」
「ああ、“台風コロッケ”ってやつだろ?
この手の期間限定セールは他の惣菜取り扱ってる店とか、
その辺のスーパーとかでも普通にやってんじゃねえか?」
「えっ、何それ聞いたことない」
「知らずにやってたのかよ……
まあ、あとで自分で調べとけ
お勉強は得意だろ?」
「ぐぬぬ……
なんかちょっと悔しいぞ……
あ、勉強といえば十坂君は卒業後の進路って決めてある?
私は支援役として更なるキャリアアップを目指したいから、
魔法大学に行こうと思ってるんだけど……」
「この時期にまだ進路決めてない奴なんているか?
俺はどっか若手冒険者の足りてない地方にでも出向いて、
身の丈に合ったダンジョン探して細々とやってくつもりだ」
「へえ、そうなんだ」
「おうよ」
「……」
「……」
「でも、もし気が変わったら遠慮無く相談してね
前回の期末テストでは私が成績トップだったし、
それなりに勉強教えられる自信はあるからさ!」
「前回は甲斐が不在だったからな
奴の連続全教科満点の記録がストップしたが……まあ、どうでもいいか
万が一気が変わった時はお前に頭下げるかもしれんが、
俺には魔法大学を目指す理由がねえんだ
魔法関連の研究をしたいわけじゃねえし、海外進出も視野に入れてねえ
学校で知識を深めるより現場で暴れてる方が性に合ってる
だから、お前らとは3月までのつき合いになるな
それまではよろしく頼むぜ、相棒」
「3月まで……」
卒業するまであと半年。
まだ半年あるが、もう半年しかない。
どちらも真剣に考えて出した答えだ。
その選択を否定することはできない。
受け入れなければならないのだ。
いずれ必ず別れの時がやってくる、と。
2人はそれ以上、将来の話をするのはやめておいた。
──十坂勝は、かつて魔物の人権を守る会の信者であった。
ただし、彼が自らの意志で入信したのではない。
両親が熱心な信者であり、いわゆる宗教2世という立場だった。
彼は子供ながら、周囲の大人たちの異常さに気づいていた。
大人たちがありがたそうに飲んでいる“奇跡の水”は、
“選ばれし子供たち”と呼ばれる児童が容器に詰めた水道水だ。
彼はその、選ばれし子供の1人だったのだ。
彼はよく親から頭を押さえつけられ、反省するまで水に沈められた。
魔人会を批判する発言をしたり、真実を広めようとした時はいつもそうだ。
それは虐待ではなく、“教育”という名の正しい行為らしかった。
数え切れないほどの教育を受けた結果、彼は沈黙と嘘を身につけた。
ある時、同い年の少年から声を掛けられた。
他の小学校で児童会長を務める九重という男子だった。
彼もまた『教育されたふり』を演じている少年であり、
いつか同じ苦しみを抱える者たちを集めて反逆しようと画策していた。
十坂はその提案に乗った。
親も、先生も、警察も助けてくれないのなら、
自分たち自身の手で自由を掴み取るしかない。
そして彼らは友情を誓い合ったのである。
またある時、子供たちに特別な仕事が与えられた。
高い壁に囲まれ、足元には砂しかない殺風景な広場に案内されると、
そこには首、手、足を鎖で繋がれた裸の大人たちの姿があった。
男女問わず服を纏っておらず、病人や老人さえも同じ扱いであった。
彼らは怯えており、年端も行かない子供たちを
まるで悪魔を見るかのような目で見つめていた。
実際、悪魔だったろう。
『石を投げろ』。
それが子供たちに与えられた仕事……処刑だったのだ。
あの大人たちが何者で、どんな罪を犯したのかはわからない。
だが、命令に従うしかなかった。
他の子供たちがそうしているように、
無垢な笑顔で無防備な相手に向かって石を投げ続けなければ、
自分もあちら側になってしまうのだと理解していたから。
選ばれし子供たちの親には共通点があった。
頭がおかしいという点ではない。それは全ての信者に当て嵌まることだ。
彼らは長年、我が子を授かることができずに悩んでいたのだ。
検査では母親の状態に何も問題が無かったことから、
子供が出来ない原因は父親側にあったのだろう。
ところが教祖様が不妊に悩む女性に“ある儀式”を施すとあら不思議、
数週間後にはどういうわけか彼女たちの体内に新たな生命が宿るのである。
教祖様の起こした奇跡によってこの世に生を受けた存在。
それが選ばれし子供だ。
終わりの時は突然やってきた。
発端は『人間指数が50以上の子供は大人になったら100以上になる』
という全く根拠の無いデマが魔人会の中で広まった件だ。
“人間指数100”というのは教祖様の完璧な人間力を示す数値であり、
それと同じ数値や、100を超える者たちは人間として扱われず、
発覚すれば袋叩きは免れない運命にある。
十坂勝の人間指数は66だった。
彼は親から顔が変形するまで殴られ、大人たちに拘束され、
高い壁に囲まれた殺風景な広場へと連れていかれた。
そして天使のような笑顔を浮かべる少年少女に取り囲まれ、
かつて自分も行なった特別な仕事を施されたのだ。
石を投げる子供たちの中には九重の姿もあった。
むしろ彼が率先して投石を行い、誰よりも楽しそうに笑っていた。
確たる証拠は無いが、例のデマを広めたのは彼なのだろう。
というのも十坂と九重は本殿の掃除をしていた時に
人間指数の測定器を発見し、試しに測ってみたことがあるのだ。
まあ、もしかしたら産まれてすぐに計測したという可能性もある。
選ばれし子供たちは一般信者よりも高い地位の生まれなのだから、
そういう記録が残されていたとしてもおかしくない。
赤ん坊の頃の記憶なんて覚えてないが、きっとそういうことだ。
固い友情で結ばれているはずの九重が裏切るわけがない。
……いや、違う。
信じたくないのだ。
十坂は、真実を認めるのが怖かったのである。
病院での生活はあまり覚えていない。
ただ、毎日いろんな大人が部屋にやってきては
質問責めにされたということだけはうっすらと記憶にある。
彼らの顔も名前も今ではもうすっかり忘れてしまったが、
会話の途中で度々「ごめん」と謝り、よく泣いていた気がする。
退院した十坂は新しい家に案内された。
そこには様々な事情で親と離れて暮らす子供たちがおり、
その日から十坂も彼らの一員……家族になった。
十坂はそこでもよく殴られたが、
魔人会で受けた仕打ちに比べればまだマシだった。
彼らは見た目通りに粗野な性格の少年たちではあったが、
決して優しいふりをしたりせず、暴力の加減を心得ていた。
何はともあれ、十坂は魔人会との関わりを断つことができた。
もう親と会わずに済む。水道水を高額で売りつけなくてもいい。
無抵抗な人間に笑顔で石を投げる必要も無い。
親友の皮を被った何かに裏切られること……は、あるかもしれない。
ならば友情なんていらない。誰かを信じなければ誰にも騙されない。
彼の心は、自身で思っている以上に蝕まれていた。
早く異常者集団から解放されたいと願っていたにも関わらず、
いざその時が来ると、不覚にも寂しさが込み上げてきたのだ。
いい思い出なんて無かった。
周りに助けを求めても『家庭内の問題』や『宗教の自由』であしらわれ、
自分はいつ、どんな殺され方をするのだろうとばかり考えていた。
『嫌なことからは逃げてもいいんだ』とテレビの誰かが言っていたが、
あの時の無力な子供が一体どこへ逃げられたというのか。
やはり思い出すのは、思い出したくないことばかりだ。
それなのに涙が止まらないのはなぜだろう。
生き延びるために教育されたふりを続けているうち、
わずかにでも魔人会の教義に感化してしまったのか?
だとしたら最悪だ。
せっかくカルトから抜け出せたというのに、
心が自由でなければ生きている意味が無い。
少年は誓った。
もう二度と誰かに飼い慣らされたりはしない、と。