戦う意志
『ヴォオオオオオォォォッッッ!!!』
バルログは再び咆哮し、四足歩行で突進してきた。
ヒロシと先輩が俺の名を叫んでいるが、俺はその場に留まった。
慌てる必要は無い。
あいつの“突進”はただの移動手段だ。
攻撃する時は、必ず後脚だけで立っている時だけだ。
俺は右足を下げ、左足に重心を乗せて両手を前へと突き出す。
鉤爪のように曲げた指は敵を切り裂くための形であり、
これにより拳で斬撃を与えることが可能になる。
“ヒョウの構え”……手数と回避に特化したスピード重視の構えだ。
正統な伝承者は母の父、つまり俺の祖父であり、俺のは形だけの偽物だ。
母は女ゆえに祖父から武術を教わることができず、
見よう見まねでこの構えを習得したそうだ。
俺も母から武術を教わったことはない。
母は教え方を知らなかったのだ。
バルログは読み通り俺の真正面で突進を止め、
四足から二足に切り替えようと上体を起こし始めた。
この瞬間は完全に無防備であり、絶好の攻撃チャンスだ。
シャシャッ!シャシャシャッ!
切り裂かれた皮膚から血の色をした液体が辺りに飛び散る。
この肉の感触は実物の熊とほぼ変わりない。
きっと大したダメージは与えられていないだろう。
二足状態となったバルログは右の前脚……右腕を振り上げ、
俺の頭に狙いを定めて勢いよく振り下ろした。
この攻撃が直撃すれば即死だ。
威圧感に怯んで後ろに下がってはならない。
俺は振り下ろしと同時に奴の右脇へと回り込み、
相手の攻撃をかわしつつ、こちらも攻撃を繰り出した。
シャシャシャッ!
狙いは右腕の切断だ。
攻撃の起点は大体ここから始まるので、
それさえ潰してしまえば行動パターンを半減できる。
母はこの太い腕を肩から引っこ抜いていたが、
俺にはそんな人間離れした芸当は不可能だ。
だからこうやってチマチマと斬撃を積み重ねるしかない。
「なんだあいつ……
人間じゃねえ……」
「先輩!
こっち手伝ってください!」
宮本が振り向くと、ヒロシとグリムは動けない仲間たちを守っていた。
2人とも盾を構えながらコボルトの群れを押し返そうとしているが、
敵の数がどんどん増えて彼らだけではどうにもならないのは明白だった。
宮本は左右の刀を強く握り締め、
筋肉と強化魔法に物を言わせて力任せにぶん回した。
「──フンッ!!」
ドサアァッ!!
その一撃で2匹のコボルトが吹き飛ばされ、壁の模様になった。
宮本の猛攻は続く。
ドサアァッ!!ドサアァッ!!ドサアァッ!!
グリムパーティーの主力たちが総掛かりで何分もかかる相手を、
宮本はものの数秒で次々と薙ぎ倒してゆく。
普段はおちゃらけてばかりの先輩だが、そこはやはり上級生。
その実力は天と地ほどの差があった。
「先輩すげえ……」
「いや……助けるのが遅れて悪りいな
つい甲斐の戦いに見とれちまってよぉ
ネコの構えは何度か見たことはあるが……
あいつ本当に何者なんだ?」
「アキラの村には獣の動きを参考にした武術が存在するようで、
各家ごとに違う動物の型が伝えられているらしいですよ
ちなみにネコの構えはアキラのオリジナルだそうです」
「少年漫画の世界かよ……
実際にあるんだな、そういうの」
「世界は広いですね」
バルログの右腕が吹き飛ぶ。
俺は切断に成功したのだ。
だが、完璧とは言えない。
あの時とは状況が違う。
母は奴の腕をまるごともぎ取ったが、
俺は上腕を半分ほど残してしまった。
この状態でもまだ右腕を使った行動をしてくるかもしれない。
観察が必要だ。
俺は再び奴の真正面に立ち、
適切な距離を保って振り下ろし攻撃を誘発する。
しかし、バルログは大きく口を開けた。
この動きは“噛みつき”だ。これは違う。
とりあえず避けないと即死だ。
冷静に内側へ飛び込んで回避。
そのまま股下を通過して背後へと移動。
この時に攻撃を加えることもできたが、
右腕の行動を封じられたと確信できるまでは余計なことをしてはいけない。
「あ、やべえ」
宮本は左右の通路から迫るコボルトの群れに気づいた。
あれに乱入されたらアキラの戦闘の邪魔になる。
1人で両側は守れない。
カルマとカムイは転倒時に負傷し、野村が手当てを行なっている。
アリスは泣いてるだけ。ヒロシは利き腕を使えない。
「おいグリム、右の通路を塞いでおけ
盾は2枚使え 俺が駆けつけるまでの時間稼ぎだ」
そう言い残し、宮本は左の通路に急行した。
そこにいたのはコボルトの群れ……の、群れであった。
行きの時点でかなりの数を殲滅してきたはずが、
なぜかこのタイミングで大量発生していたのだ。
宮本は失念していた。
魔物は、人間の悪感情に引き寄せられる性質を持っていたことを。
特に災害や大きな事件の影響で人々が混乱している時などは、
ダンジョンから魔物が流失しやすい傾向にある。
それはダンジョンの中でも同じことが言える。
今この場には自分も含め、恐怖の感情を抱えた餌が何人もいるのだ。
「チッ……やるしかねえか」
宮本は剣を構えた。
バルログは四肢を大きく広げて跳躍した。
そのまま全体重を乗せて押し潰してくる“のしかかり”だ。
これは奴の側面に向かって全力ダッシュ。
回避が間に合わなければ即死の危険行動だが、
予備動作が大きいのでわかりやすい。
あれから5分ほど観察を続けているが、
右腕を使った行動は一切してこない。
まだ確信には至っていないが、
ほぼ確実に右腕を封じることに成功したと見ていいだろう。
シャシャッ!
俺は隙を見て攻撃を再開した。
今度は奴の左脇に回り込み、左腕の切断を狙う。
母はこちらの手に捕まり、ぶん投げられて斧折樺を3本折った。
あれを喰らったらひとたまりもない。
突起物だらけの壁にぶん投げられたら即死コースだ。
「野村ァ!!
手当ては済んだか!?
ヒロシと代わってくれぇ!!」
先輩から右の通路を塞ぐよう言いつけられたグリムだが、
彼の力だけでは抑えることができず、片腕のヒロシも閉鎖に参加していた。
そしてヒロシも限界が近く、防衛線が決壊するのは時間の問題だった。
「お待たせ!
カルマ君は頭を、カムイ君は腰をやっちゃったけど、
たぶんそこまで深刻な怪我じゃないと思う!
でも一応、帰ったら精密検査だね!」
「当然だ! サンキューな!
おいヒロシ! アリスにカルマの槍持たせろ!」
「ファランクスか! 了解!」
ファランクスとは古代ギリシャの密集陣形で……
まあとにかく盾役の後ろから槍で突っつく作戦である。
「アリス、リーダーがお呼びだ!
あいつら防御で忙しいから、お前が攻撃役になってくれ!」
「私には無理!! だって女の子だもん!!
あんたがやればいいじゃない!! 男の子でしょ!?」
「ええぇ……」
バルログの左腕が吹き飛ぶ。
今度はちゃんと根本から切断することができた。
これで凶悪な掴み攻撃に注意する必要が無くなった。
『ヴォオオオオオォォォッッッ!!!』
すると奴は再び地鳴りのような咆哮を上げ、
背中に生えている物がただの飾りではないと証明するかのように、
翼を大きく広げて天井ギリギリの高さまで羽ばたいたのだ。
形態変化。
ここからが本番だ。
「ふうぅぅぅ……」
俺はゆっくりと息を吐き出して精神を集中させた。
ヒョウの構えよりも足幅を広げ、腰を低く落とす。
弓を引くように右手を後ろに下げ、貫手を形作る。
“トラの構え”……一撃必殺を信条とした攻撃特化の構えだ。
ババ様によると、完璧に使いこなせたのは母と“始祖”のみだそうだ。
母が村で最強の狩人と呼ばれていた所以がここにある。
俺にはとうとうその剛拳を再現することができず、
貫手の技術を取り入れて攻撃力不足を補うことにしたのだ。
だがそんな工夫をしても、きっとまだあの人には届かないのだろう。
バキッ!
「うぎゃあああ!! 槍折れたああ!! カルマごめん!!」
「謝ってる場合じゃないぞヒロシ!
どうせレンタルだ! 学園が弁償してくれる!
それより剣使え、剣! とにかく隙間から突っつけ!」
ファランクス戦術でコボルトの波をなんとか堰き止められていたものの、
頼りの槍が折れてしまったことで再びピンチが訪れる。
グリムはもう体力の限界が来ていたが、気合いだけで踏ん張っている。
野村も相当疲弊しているし、ヒロシの左腕も動きが鈍くなってきていた。
「ヒロシ君、水飲む〜?
私にはこれくらいしかできないからさ
アキラ君の荷物にあったやつだけど、
この状況なら許してくれるよね?」
絶体絶命の状況の中、アリスはマイペースだった。
ヒロシとしては攻撃役を代わってほしかったが、
まあ何もしないよりはマシだ。
「攻撃しながらは無理!!
グリムと野村に飲ませてやって!!」
「じゃあ野村君から飲ませてあげるね
はい、あ〜ん」
野村は口元に運ばれたペットボトルにかぶりつき、
そのまま一気に半分ほどの量を飲み干した。
「よし!
これでもう少しだけ頑張れるぞ!」
「じゃ、次リーダーの番ね」
「まだ封を開けてないのは無いのか!?
俺、男同士で間接キスとか嫌なんだけど!!」
グリムもどこかマイペースであった。
バルログの“急降下”。
あれに踏み潰されたら即死だ。
ドゴオオオォォッ!!
大地が揺れる。
仲間たちの悲鳴が聞こえるが、聞こえるならまだ無事ということだ。
今はそっちに構っている余裕は無い。
ここに来て誤算というか、なんというか……あの時とは高さが違う。
高さ制限の無いダンジョン外ではもっと高い位置から落ちてきたので、
頭の中で何度もシミュレーションしてきたスピード感とズレるのだ。
降下モーションの発生と、着地までのスピードが速くなっている。
距離が無いぶん威力は落ちているが、どのみち当たれば即死だ。
それともうひとつ……俺は奴を一撃で仕留め切れなかった。
着地後の上体が下がっている瞬間を狙って顔面にぶち込んでやったが、
やはり母の剛拳と俺の拳とでは根本的に性質が違うのだ。
「お前ら無事だったか!?
残りは俺に任せ……って、おおっ!?」
左通路の敵を全滅させて現場に舞い戻った宮本が見たものは、
同じく右通路の敵を全滅させて勝利の喜びに浸る後輩たちの姿だった。
「おい、それ……お前らよく頑張ったなあ!
つうか、どうやって倒したんだ?
この土壇場で誰か魔法を使えるようになったとかか?」
「いやあ、あのバケモンのおかげですかね
あいつが地面を揺らしてくれたおかげで敵が一斉にすっ転んで、
大部分が味方のコボルトに押し潰されたって感じです
あとは生き残った数体を手分けして始末しました」
「ガハハハ!
そうかそうか!
とにかく無事でよかったぜ!
あとは甲斐がボスを倒すだけだな!」
「ええ、あいつならきっとやってくれますよ」
バルログが“飛行突進”を仕掛けてきた。
初めて目にする行動パターンだ。
これは通常の突進と同じ性質と考えていいものだろうか。
母は奴の形態変化後、文字通り一撃必殺で仕留めてしまったので、
翼を広げた後の行動パターンを全て見せてはくれなかった。
とりあえずここは回避に専念するのが正解だろう。
選択肢を1つでも間違えれば即死だ。細心の注意を払え。
俺は奴に背を向け、距離を測りながら走った。
10m……7m……4m……これは止まってくれないパターンだと推測する。
3m……2m……1m……ここだ!
俺は壁を蹴り、上空を目指して跳躍した。
ドガアアアァァッ!!
案の定、奴はそのままのスピードで壁に激突した。
顔面の右半分がすりおろされて目玉が飛び出し、
なんともグロテスクな光景だ。
大ダメージを与えられたという手応えはある。
だが、俺が上に逃げた理由はそれだけではない。
これで奴の背中に乗ることができた。
「……ぁぁぁあああああっっっ!!!」
俺はバルログの無防備なうなじ目掛けて何度も拳を突いた。
ザシュッ!ザシュッ!ザシュッ!
飛び散る液体が口の中に入るのも構わず、何度もだ。
ザシュッ!ザシュッ!ザシュッ!
何度も、何度も、何度も……一撃必殺ではない拳を突き続けたのだ。
そして──
「ウオオオオオォォォォッッッ!!!」
気がつけば俺は……獲物の首を天高く掲げて雄叫びを上げていた。
それは胸の内が燃えるような、とても不思議な感覚であった。
あの時の母もこれと同じものを感じていたのだろうか。
まあわからなくてもいい。俺は母とは違う。
「甲斐……
お前、人間やめてんなぁ……
まったく、すげえもん見せてもらったぜ」
「お前ならやってくれると信じてたぜ、アキラ!」
「気失ってて撃破シーン見れなかった……」
「初見イベントをスキップしちまった感じだ」
「あ、アキラ君も水飲む〜?」
「みんな生きててよかったー!」
「アキラ……
そんじゃ帰ろうぜ!」
「……ああ、帰ろう」
俺には帰る場所があるのだから。