松本家の事情
春休み直後に1ヶ月間の特別休暇、そしてゴールデンウィーク、と
立て続きに連休が重なり、ほとんどの3年生は内心戸惑っていた。
こんなにも休んでいては体が鈍ってしまうのではないかと。
この無駄に長い充電時間を純粋に楽しめたのはごく一部の者だけだ。
十坂勝は前者であり、バイト先兼生活拠点の松本精肉店にて
筋肉への負荷を意識しながら力仕事をこなしたり、
接客の合間にその場でスクワットをするなりして過ごしていた。
売り物に埃が被らないように最小限の動き、最短距離で、
そして精密機械のように正確に繰り返されるその伸縮運動は、
パートのおばちゃんたちを魅了するだけの魔力を秘めていた。
「ふふ、やっぱりいつ見ても飽きないわね
年頃の男子の引き締まったケツは……
まるで芸術だわ」
「うちの旦那とは大違いよ
マラソンやってた頃はそれなりだったのに、
今じゃトドみたいにブクブク太っちゃってまあ!
トドとアザラシの夫婦だなんて、みっともないったらありゃしない!」
和やかに談笑する従業員たちを掻き分け、
店主の松本薫子が少年の前に姿を晒す。
「マサルちゃん、ちょっといいかい?
店の仕事じゃないけど手伝ってほしいことがあんのよ」
「おう、構わねえぜ」
お世話になっている身だ、それが業務外の案件だろうと
快く引き受けるのが人としての道理というものだろう。
元々賃金が目当てで働き始めたわけでもないし、
今はとにかく体を動かしたいという欲求に満ちている。
この頼み事は十坂にとって都合が良かった。
案内されたのは店から1kmほど離れた場所にある貸しコンテナで、
その中身を全て取り出して運んでほしいとのことだ。
純粋なる力仕事。これは願ったり叶ったりである。
「中には何が入ってんだ?」
「漫画とかCDがほとんどだねえ
あとはアタシらが若い頃に流行ったおもちゃとか、
まあここには死んだ夫との思い出の品を収めてたのさ
毎月のレンタル料も馬鹿にならないし、
そろそろ解約しようかと思ってね」
「へえ、なるほどな
ところでCDってなんだ?」
「ええっ!?
今の子には通じないのかい!?」
「……なーんてな
DVDよりも古いやつだろ?
たしかCDの前はカセットの時代……だっけか?」
「ちょいと待ちな
アンタ今、DVD『よりも』と言ったかい?
つまりそれは……
今の子にとってはDVDも古いって認識なのかい?」
「ん……まあ、そういうことになるな
これも時代の流れってやつだ」
「光陰矢の如し、さね
オバチャンはしばらくこのショックを引きずりそうだよ」
コンテナの中には言われた通り漫画本やCDなどが積み重なっており、
奥の方にはスケボーやヨーヨーなどの子供が喜びそうな物が見える。
しかしどれも丁寧に保管されていたとは言い難く、
空いているスペースを適当に埋めるように置いてあるだけだった。
安全面を考えるとそれで遊ぶのは避けた方がいいだろう。
「まあおもちゃ類は燃えるゴミに出すとして、
漫画とかはアンタの部屋でいいね?
元々あそこはあの人の部屋だったんだし」
「おいおい、オバチャンよぉ
俺の部屋に漫画置くのは構わねえけど、
思い出の品を捨てちまっていいのかよ?
大事だから残しておいたんだろ?」
「ん〜、でもねえ……
スケボーで坂道下りたら止まれなくて電柱に激突とか、
自分の顔面にヨーヨーぶつけて鼻血ブーとか、
ろくな思い出が無いのよねえ」
「だはは!
笑える話じゃねえか!
言っちゃ悪りいが不器用な人だったんだな!」
「ホントそうなのよ……
通学路で犬のうんこ踏んで、
足滑らせてドブに落ちるような人でね……
初めて自転車乗った日には段差でガコッとなって、
前カゴに頭突っ込んだままトラックに轢かれたり……」
「いやいや、どうやったらそうなんだよ!?」
「それがアタシらにも理解不能でねえ
不器用だし不運だし、とにかく不思議な人だったのよ」
「やっぱ燃えるゴミに出した方がいいな
なんか呪われてそうだし」
荷物の整理中、十坂はあることに気づく。
「なんつーか……不良漫画ばっかだな
今じゃあんま見かけねえけど、
当時はこういうのが流行ってたのか?」
「んー、どうだろうねえ
アタシらより前の時代が不良文化の全盛期で、
それ以降は急激に廃れていった感じらしいね
当時でもそういうの読んでるのは少数派だったよ」
「ほーん
まったく、不良なんて何がいいんだかねえ
品行方正な俺には理解できねえや」
と、金髪赤モヒカンの十坂が冗談っぽく話す。
実際、彼は品行方正な少年なのでどう反応すればよいのかわからない。
オバチャンは棚からアルバムを取り出し、それを十坂に見せた。
「ちなみにこれが生前のあの人の姿だよ
……と言っても高校生の時の写真だけどね」
そこにはポンパドールにリーゼント、短ランにボンタンといった
典型的な昔の不良少年の格好をした男子が立っていた。
彼の名は松本翔。
松本薫子の夫、そして松本静香の父親である。
「おお、気合い入ってんねえ
まるで本物のヤンキーだな」
「そうだったんだよ」
「えっ……はあ?」
「しょっちゅう自爆事故起こすようなドジっ子だけど、
これでも校内の不良たちをまとめ上げた伝説の番長だったんだよ」
「ん……番長って学校で一番強え奴だろ?
さっき聞いた話じゃ全然そんな感じしなかったぞ?」
「いや、まあ、うん……
でも筋の通らないことが嫌いな性格でね
弱い者いじめとかは絶対にしない人だったよ
そういうのを見かけたら相手が何人だろうが立ち向かっていったんだ」
「へえ、漢気ってやつか?
カッケーとこもあんじゃん、少し見直したぜ
しかも複数相手に勝つとは相当強かったんだな」
「喧嘩に勝ったことは一度も無いよ
いっつも格上相手に変な正義感振りかざして突っかかって、
案の定ボコボコにされて帰ってきたもんだ」
「なんだそりゃ!?
そんなんで番長が務まるのかよ!?」
「それがどういうわけか、人から好かれる才能だけはあったからねえ
気がついたら学校中の不良たちと仲良くなってて、
いつのまにか地域の勢力図を塗り替えてたんだよ」
「本当に不思議な人だったんだな……」
「……あ、ついでにこっちの写真も見てちょうだいな」
「ん?」
と、そこにはバイクに跨がる女性たちの姿があった。
皆セーラー服で、足首まで隠れるロングスカートを履いており、
竹刀やチェーンなどを手にした者がちらほらと見受けられる。
その写真の中央で中指を立てている人物の顔には見覚えがある。
松本静香……ではない。
年代を考えれば彼女の親世代の人間だろう。
そう、例えば彼女の母親とか……。
「……って、これ昔のオバチャンかよ!?
もしかしてレディースってやつか!?」
「ええ、アタシにもこんなイケイケの時代があったのよ
走り中心のチームだったからあんまり喧嘩はやらなかったけど、
地域でNo.1のレディースだったのは自他共に認める事実だわね」
「ほえ〜……マジか……
今と全然体型が違えじゃん
時の流れってのは残酷だな」
「まったく、なんて失礼な子なんだい!!」
十坂は尻を叩かれた。
──午後9時に店を閉めるが、店主は帳簿の処理やらで忙しい。
娘の静香は手伝いを申し出るも、それは経営者の責務だからと断られる。
仕方ないので彼女はエプロンを畳み、おとなしく食卓に着く。
それがここ最近の松本家における日常風景であった。
テーブルの上にはサイコロステーキに生姜焼き、若鶏の唐揚げなどの
牛豚鳥の肉をふんだんに使った豪勢な肉料理が用意されていた。
まさに肉づくし……肉屋の娘ならではの特権である。
「もう、十坂君ったらまたこんなに作っちゃって……
廃棄するよりはずっといいけど、毎日こんな感じじゃ太っちゃうよ?」
「とか言って満更でもねえんだろ?
安心しろ、お前の分の米は3合炊いてある」
「も〜、用意がいいなあ!」
まったくもってその通り、満更でもない。
母娘だけで暮らしていた頃は少し自分を抑えていたものの、
この家に十坂が来てからの彼女は食欲を我慢しなくなったのだ。
十坂も満更ではなかった。
自分の作った料理を幸せそうに食べてくれる相手がいる。
これほど喜ばしいことは他に無い。
しかもそれが胸に栄養が行く体質の持ち主とあれば尚更だ。
いつか母親のような体型になってしまう危険性を孕みつつも、
今はまだそこまで心配しなくてもいいだろう。
2人にとってこの共同生活はお互いにメリットがあったのだ。
そして30分後。
「ふう、ごちそうさま
お煎餅食べよっと」
「食うねえ」
「食後のデザートだよ♪
十坂君も食べる?」
「いや、俺は遠慮しとくぜ
つうかお前、煎餅の材料は米だぞ?
あんだけ米食っといてよく入るよな」
「お菓子は別腹だからいいの!」
「腹は1つしかねーよ
……それより今日、親父さんの遺品整理を手伝ったんだけどよ
想像とは違う人だったからちょっとびっくりしたぜ」
「あ、うん
肉屋の息子だからもっと頑丈なのかなと思ってたけど、
すごく病弱な人だったとは意外だよねー
私が生まれる前に死んじゃったからよく知らないけどさ」
「え、ん……病弱?」
「生前のお父さんはしょっちゅう血を吐いたりしてたらしくて、
見かねたお母さんが看病してるうちに治療の腕を上げて、
それで看護師の道に進んだんだって聞いてるよ」
「そういや元看護師とか言ってたな
だが血を吐いたりってのは、その……」
喧嘩でボコられた結果だろう。
あるいは道端で転んで怪我したとか、まあそんなところだ。
「その話を聞いて私も看護師になろうと思ってたんだけど、
それがまさか冒険者の道に進んじゃうとはねえ……
でも後悔はしてないよ
最近ようやく後方支援のスペシャリストとして自信ついてきたし、
みんなの役に立ってるんだって思えてきたから」
「……お、おう
その意気だぜ、背中は任せた」
「うん、任された!」
更に30分後。
十坂は静香が風呂に入っている隙を見計らい、
まだ帳簿を処理中の店主に尋ねた。
「なあ、オバチャンよ
娘には親父さんの過去を全部話してねえのか?
なんつうか……齟齬がある
危うく最弱の番長だった件を漏らすとこだったぜ」
「ああ、黙っといてくれたのかい
ありがとね、恩に着るよ
いつかは真実を教えるつもりではいるけど、
あの子にはまだ早いような気がしてね……」
「まあ、不良だった事実を隠したい気持ちは理解できるぜ
不良なんてろくなもんじゃねえからな
あいつは真面目な奴だし、親がそんなことしてたと知ったら
きっとショックで泡吹いてぶっ倒れちまうだろうよ」
と、金髪赤モヒカンの少年が冗談めいて笑うが、
松本薫子は手を止めたまま真剣な表情で帳簿を見つめている。
その初めて見る顔に何かを察し、十坂は笑うのをやめた。
「あんまり詳しい話をすると、どうしても気になるだろ?
その……あの人がどうやって死んだのかってさ
それをどう伝えていいのか迷っててね……
病弱だったということにしておけば都合が良いんだ
何か重い病気を患って死んだんだと勘違いしてくれるからね」
「死因、か……」
例えばそれが交通事故などであれば普通に話していただろうが、
今までそうしなかったのにはそれなりの理由があるはずだ。
松本翔という男は喧嘩が弱い癖に人一倍正義感が強く、
負け戦だとわかっていても逃げないような人物なのだ。
十中八九ろくな死に方はしなかったのだろう。
不良グループ同士の抗争やヤクザ相手に喧嘩を売ったとか、
あるいは権力者の不正を目にして黙っていられなかった、など
暴力絡みの事件で命を失ったのだろうと容易に想像できる。
死んだ人間に対して悪口を言うのは気が引けるが、彼は愚か者だ。
一般人ですら感情が昂れば何をするのかわからないのだ。
喧嘩を売った相手が暴力の世界に生きる者とあらば言語道断、
衝動的な怒りからは正論も法律も守ってはくれない。
正義の不良を気取るには実力が足りなかったのである。
十坂はそう結論づけようとしたが、
彼の推測は的外れであった。
「腹上死だよ」
「ブハアッ!!
腹上死って、おい……!!
だははははは!!
そりゃ娘には言えねえわな!!」
松本翔──
死して尚、人を笑顔にさせる男──。