泣いてたまるか
行き当たりばったりagain 。
完結するかは僕も分からん。
広げ過ぎた風呂敷に付き合える自信がある人はこのままお進み下さい。
この町が嫌いだ。何故かと言われると答えようが無いが、それは閉鎖的な空気感が要因かも知れない。
「本当に外に出ちゃうんだね」
いやいや、
「なぁに言ってるのよ。どうせ県内だし、しょっちゅう帰ってくるでしょ」
引っ越し業者のトラックはとっくに送り出された後だ。今更NOとは言えないし、言う気もない。片田舎目前の郊外の駅からは、不思議な息遣いが聞こえてくるようだった。普段はそこそこ人の居る駅も、この時期の遅い時間ともあって人もまばらだ。遥か西に望む山陵が、最後の光をぼんやりと灯している。八時二十分、無機質な声がする。
「まもなく二番線に、各駅停車白内行きが、四両編成で参ります。危ないですから、黄色い線の内側でお待ち下さい」
電車がまいりますと点滅する電光掲示板。荷物もそこそこのザックを背負い直しながら、別れの挨拶をする。
「じゃ、またいつか」
「そんな今生の別れみたいな雰囲気出さないでよ」
ならどうしろと言うのか。いざこうなってみると、かける言葉の一つも見つからない。なんだ、親友面しておいて。随分と薄情なやつだな、私は。
「なら、こういうのでいいんじゃない?」
理恵が笑顔で告げる。
「また誕生日と、クリスマスと、お正月と、あとエイプリルフールとゴールデンウィークと……」
「はいはい、分かったよもう。……また会おうね」
思わず笑顔が溢れる。不思議と満ち足りた、浮遊感を伴う時間だ。カーブした線路がチラチラと光る。次いで、ギラリと鋭い灯りがこちらを向く。不可解なほど現実感を伴わず、滑るようにそれは現れた。巻き起こす風は埃っぽかったが、不思議と心地良かった。キリリと微かな金属音と共に列車は停止し、力強い空気圧が後に続いた。
「形代、形代でございます」
はっきりと抑揚のついた機械音声。
「じゃ、次は理恵の誕生日だね」
「そうだね。じゃぁ……またね」
言葉が出て来ない。
「うん」
「うん、じゃぁ……」
「二番線、ドアが閉まります。ご注意下さい」
手を離し、列車へ飛び乗る。
「バイバイ」
空気圧。黒いゴムで縁取られた扉が私たちを隔てた。歪んだ金属が蛍光灯を捻じ曲げる。いつ動き出したのか、滑らかにホームが動き出す。理恵は私に合わせて一歩を踏み出そうとしたが、そこに踏ん張ってただ手を振るにとどまった。窓越しに手を振り、想像より遥かに早く消えゆくホームを見送る。故郷に心を惹かれる感覚が、脈絡もなくぶり返してくる。でも、私はあの町が嫌いだ。妙に排他的で、生暖かくて、居心地の良いあの安らかな町が。
言葉に出来ない消失感がふっと心を穿つ。銀色の手すりを掴んで、席に着いた。固くザラザラしたロングシートは心を落ち着けるのに役立った。対面の窓を、街灯や人家が飛んで行く。視界がぼやけた。それが何故か悔しくて、溢れた滴が頬をくすぐる。目だけで周囲を見回すが、こちらを気にする人は居ない。恥ずかしかった。脳みそは冷静なのに、涙が溢れて止まない。膝の上のザックに顔を埋める。身体が内側からどんよりと熱を持ち、胴が震え出す。泣いてたまるか、泣いてたまるか、泣くことなんてないだろう。どうせいつだって戻って来れるし、第一、私はあの町が嫌いじゃないか。泣いてたまるか、泣いてたまるか……。
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「次は白内、白内。終点でございます。開くドアは右側です。お忘れ物にご注意下さい。本日は、陽台白淵線をご利用頂き、誠にありがとうございました。」
車内は混み合っていて、通勤カバンが膝に当たる。もう十時近い。荷物は運んでくれただろうし、整理は明日か。それとも、どうせ大した荷物もないのだから、布団だけでも出してしまおうか。着いたらソファの包装だけでも外してしまおう。
目元がくしゃくしゃにされたような感覚。きっと腫れているだろう。なんだか身体が軽い。どんよりとした熱気は残ったままで、外気の素っ気なさが肌で感じられる。肌寒いけれど、なんだか暖かい。
間もなく、列車はゆっくりと減速し始めた。身体全体がゆっくりと引かれる感覚。足元から振動と軋みが伝わる。駅ビルの灯りが車内に煌めく。ガタンという音とともに止まった列車が、大きく溜息を吐いた。
「白内。白内です。足元にご注意ください」
人がわらわらと流れてゆく。座りっぱなしで疲れているように感じていたが、不思議と体は軽い。人波に沿って歩くホームは満遍なく乳白色で、足元が覚束ない。四方に伸びた薄い影を目で追いながら改札へ向かった。流石県都とだけあって、構内は広そうだ。四方から照る人工照明と人混みを避けて歩く。列車で眠ってしまったせいか、妙な具合に眼が冴える。地面を踏む感覚で膝が痺れる。改札までの道のりがいつもより長いような気がする。
角を曲がると、空間がわっと開けた。並ぶ改札、ぶら下がる掲示板、沢山の人々とせかせかした靴音。なんだか少しだけ気圧される。ICを改札に押し付けて、改札脇の狭い階段へ足を向ける。この方が近いし、もう人混みを掻き分けなくていい。生暖かい空気が降りてくる。夏真っ盛りのコンクリートの匂いが漂ってくる。階段を上ると、何故か自然と背筋が伸びた。
耳元で囁く喧騒を聞き流しつつ階段を上り切ると、繁華街の裏に出た。エアコンの排水が歩道に縞模様を描いている。住宅街も近いので、人通りはそう多くない。整然と立ち並んだ街灯が青白い円をアスファルトに描き出している。すでに遅い時間なだけあって、人家に灯りはまばらだ。深夜目前の街は、やはり排他的ではあるけれど、しっかりと包み込んでくれるような安心感がある。一方通行とスクールゾーンだらけの街を歩いた。
風が吹くたびに影が揺れる。浮足立つとも少し違う感覚。町を離れたんだという実感が湧いてきた。あんなに憎んだ町なのに、あんなに嫌った町なのに。それなのにその光景が意識を過る。もう何度か通ったはずなの道なのに、まるで違った場所のようだ。人気が無く、何かの虫の鳴き声だけが響いている。暗闇のせいか、自然と耳に音が流れ込んでくる。室外機の唸る音がした。微かな風に木の葉が擦れている。そして、その奥で低く繁華街の喧騒が聞こえる。なんだか、やんちゃをして職員室に呼ばれたあの時の感覚に似ている。何もしていないのに、後ろめたさが背筋を這うようだ。コインパーキングに並んだ車が、照明に照らされて妙に艶めかしい。人気のない公園に暗闇がわだかまっている。それは濃いはずなのに、いざ目を凝らすと薄っぺらく見える。
二十分弱のはずなのに、もっと長い時間歩いていたような気がする。人の話し声と、気配。トラックのヘッドライトが覗いた。静まり返った街では、逆にそこだけが現実離れしているようだった。
「遅くなりました」
「あぁ、いえいえ。搬入も終わった所ですし、ちょうどいいですよ。何かお手伝いすることはあります?」
どう……だろうか。あぁ、そういえばだ。
「ソファの梱包は外し終わってます?流石に新居を借りたのにホテル泊まりというのも悲しくて」
「ええ、大丈夫です。大きい家具なんかは梱包も外し終わる頃ですから」
そりゃぁ良かった。
アパートを見上げると、どこからかワクワクが湧いてくる。錆びた柱、禿げた塗装。安っぽいトタンの雨よけ。業者の人が廊下を歩く、控えめだけれど良く響く音。街灯に中途半端に照らされた安アパートは、不気味と言い切るには少し惜しい。業者について階段を上る。緩衝材の巻かれた手すりの毛羽立った感覚が印象的だ。狭い戸口は、ドアストッパーであんぐりと開いたままだ。
玄関に、誰の物かも分からない靴がひしめいている。その後ろに続くように靴を脱ぐ。フローリングに上がり、壁に貼られた緩衝材を外している業者の方々に会釈する。
一人暮らしには十分な居間と、いまいち存在価値が分からない狭すぎる和室。白くてちんけな光沢をもったキッチン。要望通り、備え付けの棚に押し込まれた1ドアの冷蔵庫。
申し訳程度の2人掛けソファは、既に梱包を解かれて部屋の隅に置いてあった。目を覚ます乳白色の光が、部屋を満遍なく照らし出す。積み重なった段ボールからは、ふんわりと紙の香りがした。
「これで荷物は全部ですね。家具の移動だとか、段ボールの開封はお客様自身でなされますか?」
「ええ。大丈夫です。今日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
そう言ってずらした帽子の隙間からボサボサの髪が覗く。そういえば、だ。ザックを前に回す。ザックの中はなぜか冷たい。夜が逃げ込んだみたいだ。丁寧に包装されたずっしりとした箱を引っ張り出す。
「お礼と言っちゃぁ何ですけど、これ、形代のお饅頭です」
「頂いていいんですか?」
「その為ですよ。お茶請けにピッタリなので、ぜひ」
「ありがとうございます」
一仕事終えた彼らは、ザワザワと部屋を引き払った。
「それでは、失礼しました」
ドアのストッパーが外されて、その後ろでは、鮮やかな手付きで緩衝材が外されてゆく。ドアがゆっくりと閉められて、外の喧騒は不思議とピタッと止んだ。
倒れ込む。ソファの布地はまだ、引っ越しの余所余所しい空気を含んでいた。ザックに手を突っ込んで、歯ブラシと軽食を取り出す。近くの段ボールに投げ出す。夜の濃度はすっかり薄れ、ザックの中は生暖かった。
どうにも気怠い。部屋の中は青白い空気で満ちていて、沈黙が堆積している。それがねっとりと纏わりついてくるのだ。テレビを付けようか。いや、テレビは箱の中だ。しょうがない、ラジオはザックにあったはずだけども。
さて、今日は早めに休まないと。それにしても、列車の中で寝てしまったのは悪手か。なのに疲れているというのもおかしいような。まぁ、新生活なんてそんな物だろうか。
結局、身体を起こすのに五分近くかかった。
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眠れない。
腰が痛い。ソファの上は思ったより狭かったようだ。
威圧的な段ボールの塔が目前に聳える。カーテンの引かれていない窓に、曇りガラス越しの隣家がぼんやり浮かび上がる。目がジンジンと見開かれ、輪郭が絶え間なく揺れる。そして何より、町が浮かんでは離れない。
いつだったか、祭りの時に歩いた温泉街が目の前に伸びている。普段はあまり他所ものを歓迎しないこの町だけれど、今日に限っては例外だ。川の飛沫がここまで舞い上がる。歩行者天国を山車が回る。大豆の焼ける匂い。発電機の唸り声。生気を奪うような何かが充満していたあの町だけれど、祭りの時はそれも感じなかった。
隣には、チョコバナナを持った理恵。毎年祭りの度に買う癖に、いつも半ばで落としていた。右手には、余命ニ、三週間の金魚。結局二ヶ月以上保ったことはなかった。
懐かしい。ふと郷愁が蘇るけれど、すぐにドロリとした記憶が蓋をする。あの町は、少なくとも私に合うような場所じゃぁない。懐かしいけれど、決して帰りたいと思える場所ではない。それなのに悲しい。理由もないのにあの町へ帰りたくなる。あぁ、ダメだ。これは止められない。
自然と涙が溢れる。暗闇がこちらを睨みつけるようで怖かった。今度はこちらを見てくる人なんてどこにも居ない。なのに、また無性に恥ずかしい。身体の中にぼんやりとした熱がぶり返した。なんでこんなに懐かしいんだろう。なんでこんなに帰りたいんだろう。心の一部を置き去ったような感覚がする。すずらんテープのように裂けた意識が、少しの風に敏感に揺れ動く。細い感情が三つ編みの糸を編む。あぁ、もう。泣いてたまるか。泣いてたまるか。私は、あんな町に帰りたくない。
泣くのが馬鹿らしくなるくらいに心が空虚だ。それなのに、悲しいという感情が深く根ざしている。コンプレッサーが唸るのを聴きながら、殊更身体を丸め込む。
泣いてたまるか、泣いてたまるか。
強情だなぁ、私は。