9 作業小屋のバラード.
旦那様にご褒美として建ててもらった小さな作業場で、化粧水を作ってる。作業場は奥様の鍛錬とお手入れを指南したご褒美だ。
材料のメインは柑橘類の種をたくさん漬け込んだ蒸留酒。この蒸留酒はワインの搾りカスに水を足して蒸留した庶民の安い酒だ。
この世界には蒸留の技術があるんですよ。すごくない?私だってやったことないわ、蒸留なんて。この世界を甘く見てたわ。
執事さんに尋ねたら
「錬金術師が考えたそうです。錬金術師は他の金属から金は作れなかったけど、蒸留酒が作られたのは喜ばしいことです」って。
執事さんも飲むんだって、蒸留酒。
もちろん富裕層の旦那様達は飲まないですよ。なんたってブドウの搾りかすと水が原料だから。
アルコール度数が高いことは大切よ。私は消毒用にバンバン使ってる。
市場に行くたびに買うから、酒屋のおじちゃんには「嬢ちゃんとこのお父さんは酒飲みなんだな」って言われるくらい。
最近は平民になり切るのが上手くなった。コツは荒れてない手を見せないこと。姿勢を良くしすぎないこと。だから今も市場にこっそり通ってる。
化粧水には種を漬け込んだ蒸留酒に蜂蜜とグリセリンを加えた。しっとり潤う化粧水になる。お試しで作ったら使用感が良かったから、今度は奥様や使用人の皆さんの分を作ってるとこ。しばらく寝かせたら完成するのよ。
楽しくって歌いながら作ってた。歌はJポップのバラード。こんな歌はこの世界に無いから小声で歌う。扉を閉めてるから大丈夫よね。
悲しいことにだんだん前世の歌を忘れていく。なんでかな。ずっと耳にしてないからかな。それともこの世界になじんだからかな。
「いい歌だな」
「ひいぃ!」
高い位置にある採光用の窓から声が降ってきて心臓がギュッと痛くなった。そんな所から声をかけるのはやめて欲しい。腰を抜かすかと思った。
「殿下、どうして」
聞かれた?今の歌、聞かれたってことよね?
「馬の運動がてらこちらまで来た。小屋に入れてもらえるかな」
バタバタと辺りの物を片付けて、頭が真っ白なままドアに駆け寄る。
「どうぞ」
「ここは?」
「作業小屋でございます」
「なぜ?家の中で作業すれば良いじゃないか」
殿下の後ろには四人の騎士さん達が距離を置いて佇んでいる。ドアは全開のまま殿下が入ってくる。とりあえず椅子を勧めた。
「私が厨房で作業すると、料理人の皆さんのお邪魔になりますから」
「使用人に気を遣っているのか」
「わたくしは、この家の人間ではございませんから」
「あなたはそう考えるのだね」
殿下は私が作っている化粧水を物珍しそうに手に取って眺めたり匂いを嗅いだりしている。
歌のこと、聞かないんだ? 美しい王子様だけど、私はこの人がちょっと苦手だ。最初から私に興味と関心を持っていた人。
お願いだから、何か喋ってください。落ち着きません。
「あなたは初めて会った時から緊張していたな」
「それは……山奥で育った人間には、王子様は雲の上の方なので。恐れ多くて、緊張してしまうのです」
「そうか」
「はい」
王子がレモンを手に取って「食べていいか」と聞く。「どうぞ」と答えると丸のままガシュッと齧った。こういう雑誌あったなぁと眺める。イケメンの男性タレントがレモンを齧る表紙の。
「酸っぱくないのですか?」
「酸っぱいさ。レモンだからね」
そりゃそうか。なんだか可笑しくてついクスッと笑ってしまった。
「やっと笑った。あなたは僕の前だといつも緊張して笑わない」
「そう、でしたか?よく覚えておりません」
「笑うと可愛い。もっと笑うといいのに」
「……はい」
ひー。やめて。十七才にときめきたくないからやめてくださぁい!
「ここで何を作っているの?」
「化粧水という物を。お肌に潤いを与えられたら、と思いまして」
化粧水はこの世界で見かけないから、この言い方でオーケーよね?
「あなたは何かを尋ねると、いつも必死になる。僕が怖いの?」
「……」
顔がイケメンで声もイケボなので緊張しているのです、とは言えない。あと、なんか感づいている気がするのも緊張します。
「僕は、あなたのことが知りたいのだが」
いやいや、知らなくていいから。今日は「あなた」呼びなのはなんでかしら。「モニカ嬢」と違うのに意味があるのか。
「わたくしは山奥で育って…」
「それはもう知ってる。あなたの親のことも知っている。嫁いだ姉たちのことも。書類の上だけだがな」
伝家の宝刀「山奥で育ったので」を封じられちゃったよ。
「家や家族のことではなく、あなたのことが知りたいのだ」
それはなにか、告白してるように聞こえますが、違いますよね?
王子が片手を振って騎士さんたちをもう少し後ろに下がらせた。話し声が聞こえないようにってことか。
「わたくしのことですか」
「伯爵夫人のことを聞いた。わずか十六才のあなたが、あのような成果を出したのは驚きだ」
「わたくしの祖母が膝痛でしたので」
王子様が何かを言いかけてやめる、ってのを何度も繰り返す。ついにため息を長々と吐き出して口を閉じてしまった。そして。
「さっきの歌をもう一度歌ってくれないか?言葉はわからなかったが、なぜか胸を打つ」
歌うの?さっきはうっかり日本語で歌ってたのに。ああ、どうしよう。王子が知らない言葉をモニカちゃんが知ってるはずがない。
もう、もう、だめかも。
頭の中をお屋敷の人たちの顔が浮かぶ。楽しくて幸せな今の生活が、指の間からサラサラと落ちていく気がした。
♦︎
「モニカ、モニカ!どうしたんだ?」
両肩を揺さぶられて、我に返った。
「どうして泣くんだ」
紫水晶のような目が近くから覗き込んでいる。サラサラの金髪の前髪が顔にかかって、若く美しい王子様が気遣わしげな顔になっている。
王子のひんやりした指先が私の頬をそっと撫でていて、私はこの世界に来て初めて、悲しい涙を一粒だけ流していることに気づいた。
「申し訳ありません。本当に申し訳ありません」
「謝るな。なぜ謝るのだ。大丈夫か?」
「は、はい」
チラッと外を見ると、騎士さん達が心配そうにこちらを見ている。これでは王子が私に意地悪を言って泣かしたみたいに見えるだろう。それはあんまり申し訳ない。慌てて袖で涙を拭って笑ってみせる。
「ちょっと、混乱してしまいました」
全力で笑って誤魔化した。
ごめんね王子様。あなたは何も悪くないのに。私には大きな秘密があるの。この世界は不便だけど、とても幸せだったのよ。とても幸せで、とても気に入っていたの。でも、そろそろここでの暮らしも潮時かなと思ったらつい、ね。
王子が痛ましい物を見るような顔になって立ち上がった。
「悪かった」
そう言ってくるりと後ろを向くと、足早に行ってしまった。
♦︎
なぜ泣いたんだ。なぜ泣きながら笑うんだ。
あんな悲しい笑顔が見たかったわけじゃないのに。
僕は黒髪の娘のことを理解したかった。でも言い出せなかった。
どうすればよかった?
あの歌は物悲しく、切なそうな歌だった。聞いたことのない言葉は黒髪の娘の国の言葉なのだろう。
あの歌を聞かれたから、泣いたのか?正体がばれたと思ったか。正体がばれたら問答無用で殺されるとでも思ったか。僕はそんな人間に見えるのか。
モニカの正体を知らなければ、こんな面倒なことにはならなかったろうに。
霊が見える力は、今まで手や足と同じように僕の一部だった。
でも僕は今、初めてその力が疎ましい。
♦︎
王宮に戻った王子が地の底にめり込みそうなほど落ち込んでいる頃、ベルトーナ伯爵とクララがヒソヒソと会話していた。
「それをクララに頼みたいのだが、受けてくれるかい?」
「もちろんでございます。お任せくださいまし!」
鼻息荒く引き受けるクララである。